今週の通勤電車では福井憲彦著の「物語 パリの歴史」を読んだ.世界の芸術と文化の都と称されるパリの街なみの,2000年にわたる変遷を概観している.日本人は千年の都=京都の歴史は世界一を誇ると信じているが,パリの歴史はいくつもの国の変遷を超えて存在していることが解る.パリは古代ローマがガリアに進出した頃に既に重要拠点だったようだ.英仏海峡へ続くセーヌ河の水路と陸路が交差するシテ島を中心に発展した.こう考えると,飛鳥や京都も似たような位置づけに思える. 西ローマ帝国が崩壊してフランク王国が843年に分割され,西フランク王国は987年にカペー朝のフランス王国となる.日本は平安時代である.カペー朝の王家はパリ~オルレアンに所領がありパリ伯と呼ばれていたそうだ.パリが王都として整備されたのは王権が安定しだした1100年代以降のようだ.セーヌの水運商人を保護し,1163~1225年にかけてノートルダム大聖堂が建設された.また,セーヌ河を上って来る敵の撃退のため右岸にルーブル城塞が築かれ,これがやがて王宮になる.一方の左岸には神学校が設けられ,13世紀半ばには神学部,法学部,医学部と自由七科(文法・修辞・弁証・幾何・代数・天文・音楽)の研究教育をおこなう学部(現代でいう教養学部)からなるパリ大学へ発展する.経済的に恵まれない学生が学問に集中できるよう聖職者等が運営する寄宿舎(学寮)がいくつか設立され,中でもソルボンヌ学寮には優秀な学生や教師が集まって寮内で講義がおこなわれるようになる.やがてパリ大学神学部が受け入れる学生はソルボンヌでの勉強を優秀な成績で修了することが条件になり,ソルボンヌはパリ大学と一体になった.かくして,左岸のカルチェ・ラタン辺りは知的な文教地区になった.13~14世紀頃の中世のパリは20万人ほどの人口だったようだ.右岸には職人や商人が多く住み,中央市場も設けられた. 14世紀半ば~15世紀半ばにかけて,パリは度重なる火災やペストの流行,そして百年戦争の影響などもあり,人口は半減したようだ.この間に商人の代表が市参事会の市民代表という,後世の市長にあたる職に就くようになった.市政と王権は課税等を巡って,またときには国政を巡って対立することもあった.ルネッサンス期になると,国王フランソワ1世はダビンチ等の各界で著名なイタリア人をパリへ招聘し,文化的高揚を図った.王...