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文庫本:古代史の謎は「鉄」で解ける

港湾建設が本職の土木技術者が現場主義に基づいて立てた古代倭国像に関する仮説,解りやすくて説得力がある.文献は都合よく書いてしまうことができるが,物証を変えることはできない.科学的に正しい歴史観を持たねばならない.という考え方が根底にある.

倭国とは,朝鮮半島南部から西日本にかけての海運を担っていた多国籍な都市国家連合である.海運の主要な商品は「鉄」,伽耶は鉄の生産拠点で工業国であった.朝鮮半島から,対馬経由で九州に至るルートのほかに,隠岐を経て,出雲から吉備・淡路経由で大阪湾に至るルート,丹後半島経由で大和に至るルートがあった.海運権益同盟の倭国と大和は別ものであった.

騎馬民族国家の高句麗が朝鮮半島を支配するようになり,その南進に伴って,倭国連合軍は海運権益をかけて高句麗と戦うが敗れる.舟の漕ぎ手や兵士として若者が大量動員された日本海側の集落は人口が減少し,代わって朝鮮半島東部から逃れてきた高句麗系遊牧民が増えた.また,帰還兵が高句麗・新羅から高句麗文化を持ち帰った.これによって,手漕ぎの丸木舟に代わって準構造船や帆走の技術がもたらされ,馬を運ぶことができるようになった.これが倭国大乱の実像だという.
朝鮮半島の東側では高句麗と新羅が海運業に乗り出し,日本海側の航路は新羅の影響を受けることになって,蘇我氏が台頭する.倭国と百済は別ルートを確保する必要に迫られ,既存の大阪湾から吉備に至る瀬戸内東ルートに加えて吉備から九州に至る瀬戸内西ルートが開ける.百済は戦争で疲弊しており,瀬戸内ルートから任那・百済へ傭兵が送られた.高句麗は唐・新羅連合軍に敗れ,高麗人が多数日本海側航路を経て北陸から毛野の東国へやってきた.倭国連合が百済へ送った援軍も敗れる.伽耶・百済の工人が大量に大阪平野へやって来た.こうして技術を持った工人が渡来してヤマトの国家を建設した.
一方の朝鮮半島は産業が空洞化し,搾取する貴族と奴隷だけの国になった.前方後円墳の古墳群は全て交通の要所に位置しており,交易に必要な施設が揃っている.埴輪は言葉が違っても通じ合うためのサインである.前方後円墳は,円墳文化や方墳文化にとらわれず,国際交易ができる公設市場である.海運を担う船の漕ぎ手をもてなし,多量の商品を並べて取引する場所であった.

海運と工業が古代からの日本国家の生業,思慮深さやもてなしの心を倭人から受け継いでいる.中国や朝鮮半島の国々は,用意周到に準備して隙あらば周辺諸国を侵略してきた.我々はその兆候を見抜いて負けない準備をする必要がある.


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