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だからボブ・ディランがノーベル文学賞をとった!

全世界を驚かせたボブ・ディランのノーベル文学賞受賞.日本のフォークシンガーにも影響を与えたほか,村上春樹氏らの文学作品にもその名前は多く登場する.ファンが多い日本では歓迎ムードが広がっている一方,欧米では文壇から批判や疑問の声も上がっているという.なぜ,ミュージシャンがノーベル文学賞を 受賞したのか?ボブ・ディランの詩の研究を続けている原成吉氏が解説する.

なぜミュージシャンなのに文学賞?
独協大学外国語学部教授 原 成吉  ※出典はYOMIURI ONLINE

ノーベル文学賞受賞を祝うパネルが掲げられたCDコーナー(10月14日、福岡市で)

今年のノーベル文学賞が,アメリカのシンガー・ソングライター,ボブ・ディランに決定したというニュースを聞いて,この選考委員会はなんて粋なことをするのだろうと思った. 受賞理由は,「アメリカの伝統音楽にのせて新しい詩の表現を創造した」ことにあるという.ロックを聴いて大人になり,アメリカ詩を愛読し,そのコトバを届けてきたぼくのような人間にとってはうれしい限りだ.でも,どうしてミュージシャンが文学賞なの? そもそもディランは何を歌ってきたの? 彼のコトバはどこがちがうの? こんな疑問を持った方も少なくないと思う.そもそも,歌詞と詩のちがいって何なのか.アメリカの詩人ゲーリー・スナイダーは,「ロックの歌詞とはちがって,詩には過去から途切れることなく繋(つな)がっている,膨大な文化的,元型的な伝承が生きています.そしてそれは未来にも向けられているのです」と述べている.おそらくここで言っているロックの歌詞とは,「ぼくはきみに首ったけ」とか「規則やルールはぶっ壊せ,おれにはおれの生き方がある」といった,生の感情をぶつけたコトバをさしているのだろう.もちろん「ソング・アンド・ダンスマン」を自称するディランの作品にもシンプルなラブ・ソングはあるが,スナイダーの言う「詩」を歌ったものが,ディランをディランたらしめている.

古くて新しい詩の流通手段

代表曲「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」(1965年)の音楽ビデオ(左は,アレン・ギンズバーグ)

いま日本でもアメリカでも,詩は少数派の文化といえるだろう.私たちにとって,詩はページに印刷された活字を黙読するものになっている.昔々,詩と歌と踊りの根っこは同じであったが,時代を経るにしたがってそれぞれのジャンルに分かれていった.印刷術が発明されるまでは,詩は楽器に合わせて歌われていた.昔々の詩人たちは,共同体の語り部であり,預言者でもあった.そのコトバは,詩であり歌そのものだった.ディランは,現代にこの伝統を復活した「ポエト/シンガー」といえるだろう.ディランが歌手としてデビューする前の1950年代後半,アメリカに「ビート」と呼ばれる詩人たちが現れた.その代表的詩人がアレン・ギンズバーグ(1926年―97年)だ.ビートとは,50年代後半にアメリカ合衆国の文学界で異彩を放ったグループ,あるいはその活動を指す.彼らがさかんに行った「ポエトリー・リーディング」(自作詩の朗読)は,本のページに閉じ込められていた詩を,街のカフェやギャラリーに引っ張りだし,詩が「声の文化」であることを改めて教えてくれた.ポエトリー・リーディングとは,頭で詩を分析することから離 れ,身体全体で詩を体験することに他ならない.これは,古くて新しい「詩の流通手段」といえる.ここにみられる特定の時空間を共有するコミュニケーション の方法は,後のロック・ミュージックのコンサートと相通じるものがある.ディランは,ビート世代の詩人たち,とりわけギンズバーグとの交友をとおして詩の伝統を吸収しながら,一方では,歌うことの大切さを詩人たちに再認識させた.そう考えると冒頭に引用した受賞理由は,腑(ふ)に落ちる.

詠み人知らずの物語歌
すでに多くの人が指摘していることだが,ディランの歌詞はイギリスやアメリカの詩的伝統から作られている.それは初期の傑作のひとつ「激しい雨が降りそうだ」(1963年)に見てとれる.この作品は,「ロード・ランダル」という口承バラッドの応答歌のスタイルを踏まえて作られている.「バラッド」とは,詠み人知らずの物語歌で,ときに内容は歌い手によって作り替えられ,時代や場所をこえ,歌われてきた詩のことだ.サイモン&ガーファンクルの歌で知られている「スカボロー・フェアー」も口承バラッドのひとつだ.「ロード・ランダル」という元歌では,母の問いと息子(ランダル卿)の応えが繰り返される中で,息子が恋人に毒を盛られたという事実が明らかにされる.この不吉なバラッドの雰囲気は,そのままディランの作品にもみてとれる.「わたしの息子,ロード・ランダルよ,どこへ行ってきたんだい/私の立派な若者よ?」という問いかけは,ディランの作品では,「青い目をした私の息子よ,どこへ行ってきたんだい/私の愛しい若者よ?」となっていて,五つの質問を「青い目の息子」に応えさせている.

ボブ・ディランの「風に吹かれて」が掲載された高校教科書

ディランの作品では,現代社会がかかえるさまざまな問題――自由の抑圧,人種差別,戦争といった主題が比喩的表現によって展開されてゆく.「激しい雨が降りそうだ」から1行ずつ引用してみよう.「ぼくは七つの悲しい森の真ん中に,入っていったのです」,「野生の狼に囲まれた,生まれたばかりの赤ん坊を見ました」などの言葉に続き,「いまにも,激しい,激しい,激しい雨が降りそうなんです」という一節が繰り返される.さまざまな経験をしてきた「青い目をした私の息子」に,母親は「これから何をするんだい?」とたずねる.それに応えて息子は,「…飢えが醜く,魂は忘れ去られ」たような混沌(こんとん)とした世界で,「…ぼくは沈み始めるまで,海の上に立つのです/しかし歌い始めるまえに,自分の歌がよくわかるでしょう」としている.「激しい雨が降りそうだ」は,聖書の「ノアの洪水」にみられるような危機的状況が,差し迫っていることを暗示している.この作品からは,時代の語り部の姿が浮かびあがってくる.このようなバラッド,あるいはフォークソングやブルースのメロディを基調にしながら,聖書や文学作品からの引用,そしてトピカルな事象やそこから連想したイメージを組みあわせながら,ディランは「ここ(・・),そして,いま(・・)」の意味を創造してゆく.過去のものをそのまま使えば単なる真似(まね)にすぎないが,ディランの場合は,過去を同時代的なものとして,伝統を新たなものへと変容してゆく.興味深いのは,詩の作り方だ.それは,断片的なイメージを組み合わせながら,作品の総合的な意味を聴衆・読者に喚起させる手法だ.これはモダニストの詩人たちが実践した「コラージュ」の詩学と似ている.ディランは,その詩を曲にのせて歌うことによって,多くの聴 衆に詩を聴かせてきた.そして現代詩とポピュラー・ミュージックの間にあった壁を壊し,コトバの可能性を切り開いてきた.コトバが使い捨てにされる私たち の時代に,ボブ・ディランの作品は,詩と音楽,両方のジャンルを刺激しながら,詩のコトバを復権し,新しい「現代詩」を創造してきたといえる.

※歌詞の和訳はすべて原教授

原 成吉( はら・しげよし ) 
1953年東京生まれ.独協大学外国語学部教授(アメリカ文学・現代詩).76年独協大学 外国語学部英語学科卒,法政大学大学院修士課程修了,83年駒沢大学大学院博士課程満期退学.著書に『記憶の宿る場所-エズラ・パウンドと20世紀の詩』 (共著),『テクストの声』(共著)ほか.翻訳に『ウィリアムズ詩集』(編・訳),『チャールズ・オルスン詩集』(共訳),ゲーリー・スナイダー詩集には 『終わりなき山河』(共訳),『リップラップと寒山詩』,『奥の国』,『絶頂の危うさ』ほか.『ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち』(共著)がある.


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