わたしの人生観・歴史観という副題で,渡部昇一氏逝去直後の2017年6月にPHP新書から刊行された氏の著作.『渡部昇一の人生観・歴史観を高める辞典』1996年,および同著の改題出版『わたしの人生観・歴史観』2007年,を改訂・改題したものである.
第二部:歴史観を高めるための十九の視点,の二部構成.
教養人などから嫌われるこのような教訓的な書物を書く根拠について述べる.明治期の日本人には未だ出世のルートが明瞭に見えなかったが,日露戦争が終わった頃からは出世するために通らねばならないルートが明確にできてきた.海軍のトップになるなら,旧制中学→海軍兵学校→海軍大学,しかも良い成績でなければいけない.東大を出てエリートコースを歩むようなひとには人生を考える必要などなかったかもしれないが,戦後すぐの上智大学文学部で学んだ著者には人生の先のほうは全く見えなかったので,人間や人生をあれこれ考える本に惹かれた.著者の人生論的な興味も,多くの人が前途の平坦なルートが見にくいと感じるような時代には,多少のヒントとなるかもしれない.日本史については,著者が比較的若い頃から外国で生活したことや英文科の恩師のおかげで日本史や日本文学などへの関心を維持してきたことによる.ある年代の日本人は,かなりの知識人でも,戦前の日本の置かれた状況の記憶もなく戦後は東京裁判史観のみ教えられて育った.1970年安保闘争の全共連などの言論を聞き流せなくなった.外国の新聞などの堂々とした報道に対して日本のマスコミの報道の卑屈さに腹がたつこともあった.本書はこのような背景から生まれたのである.
「自分探しの旅」:源平の戦いの頃は,「やあやあ我こそは..」と自分の祖先から説き起こして父に至り自分はその子であると,「自分がいかなる者であるか」を生物的・社会的に規定すればよく,「自分とは何ぞや」といったことはほとんど問題にならなかったに違いない.ごく最近まで,「私はA社の社員である」からA社の繁栄につながるように献身することが自己実現であり生きがいであった.ところが現代ではそうでなくなってきた.会社の規則という自分の外側にある価値体系に浸っていれば生きがいのある時代は崩れ去ろうとしている.外側の価値体系が崩れると,人は「自分の内側」に価値を求めざるを得なくなる.徹底して自分を見つめて自分を探してこそ,真に自分らしい生き方ができる.これまでの自分の検証,どういう考え方に染まってきたのか,外側のモノサシは内側の自分にとって正しかったのか,自分を目覚めさせるためにどのような観点が必要なのか知る必要がある.そして,日本人としての自分に気づいて歴史観を確立することもアイデンティティー確立に大切である.従来の価値観から見つめるのではなく,先人の知恵やいま問い直されている視点で見つめることである.謙虚に,そして真摯に.
近代科学思考からの自由:現代社会が拠って立つ近代科学思考を遡ると,ソクラテスからの二つの流れの一つであるアリストテレスの哲学に辿り着く.その特徴を一言でいうとアナリシス,つまり分析である.自己の関心を対象に向け「客観的」な姿勢をとる.「実態は,知覚しうる個々の対象に内在する」という彼の言葉,内在するものを知るためには,それをばらばらにして見るより方法がない.その姿勢がアナリシスである.これはフランシス・ベーコン,更にはデカルトに引き継がれ,「問題はできるだけ多くの小さい部分に分けて単純で認識しやすい要素を見出す」という分析の手法となった.近代科学はこの要素還元主義という手法によって発達した.物質を素粒子までに細かく分類し,肉眼で見ていたものは拡大鏡で観察し,電子顕微鏡まで発明した.しかし,この近代科学思考が必ずしも万全でないことに次第に気づき始めたのが現代と言えるだろう.アリストテレス起源のアナリシスの流れに対して,プラトンが起源のアナロジー(類比)の思想の流れがある.ノーベル生理学・医学賞を受賞者のアレキシス・カレルは,分析から総合へ取り組み方を変えねばならぬと主張した.「分けてものごとを見る」「客観的なものだけが正しい」とする,とらわれた近代思考から自由になることが求められている.
不確定性原理の意味:量子力学の創始者ハイゼンベルクの不確定性原理は非常な衝撃を与えた.簡単に言うと「物質を正確に観測しようとすればするほど間違った情報が導き出される」というものだ.きわめて微小な素粒子を観測しようと光を当てると,位置がその光によって変わってしまう.近代科学思想の誤謬や限界を指摘する新しい理論が台頭してきた.「カオス理論」もそうである.経済学者ハイエクのノーベル賞受賞記念講演は「知ったかぶり」と題する社会主義批判であった.「人間の知力など,頼むに足りない」と知った上で努力せよとの教えである.ギリシャ時代から有名な,アキレスは前を歩く亀を追い越せないという「ツェノンの逆理」,哲学者ヒュームはこの命題から人間の知力にはどこか欠陥があるという結論に至り,論理的正しさと現実の正しさの食い違いを例証した.クロムウェルは王権神授説を振りかざす間違った王政を廃するとチャールズ一世を処刑したが,結果は王政よりも弾圧的な更に辛い軍政の時代となった.どんな優秀な官僚も物価を決めることができないのに,できると思い込んだソ連経済は崩壊した.ものごとを客観的に分析し論理的に解明しても,導き出される答えが絶対的に正しいとは限らずむしろ道を間違えさせることもあると,不確定性原理は教えている.
正しいオカルト:私たちは理性第一主義の教育を受けて来た.デカルトの方法序説に「良識(理性)は万人に共通するものである」とある.この理性の光が及ぶところが科学的な世界であり,人間はそうあるべきだとの考え方は広く西欧社会に広まった.しかし理性だけでは幸せになれない.光を志向する木の葉が存在するには闇の地中を這う根が必要だ.近代思考の崩壊が叫ばれる現代では超常現象やオカルトが脚光を浴びている.現代人はオカルトのようなものを一度真正面から捉え直すことによって,正しい人間観を構築できると思う.オカルトの起源は近代科学と同じく17世紀に遡る.客観的分析が可能である科学に対して,すこぶる個人的で誰でも検証できない錬金術や占星術はオカルト・サイエンス(隠された学問)と呼ばれた.しかし両者の分かれ目はあやふやで,その時代の知識や技術で分析可能かどうかで決まる.カントは「オカルトの世界は科学で扱えないだけであって決して否定できる世界ではない.ただ自分は学者だから科学的アプローチしかできない」と言っている.これが理性者の立場であって,光と闇それぞれに応じた接し方をすることが肝要である.内部を分析できないオカルトの良否は,信じている人の行動や顔つき,療法が効くか否かなど外面の様子を見れば良い.
本性としての善:人間は頭で考えてその指令で動く生き物である.自分とは何かを考える時,人間の本性とはそもそも何かを考える必要が生じる.その時に性善説と性悪説のどちらに自分の考え方を置くかで人生は変わってくる.欧米社会の基盤となっているキリスト教やユダヤ教,そしてローマ法はいずれも性悪説である.人間の性は歪められているので神と契約して戒律を守り性を拘束しないととんでもないことをする,被征服者は隙があったら反乱する,という考え方である.一方日本では,島国で鎖国政策だったこと,性善説の仏教や儒教が行き渡ったことから旧幕時代から性善説が支配的であった.子供を性悪説で教育するとマイナス面に目を向けて萎縮してしまう.フロイトの心理学や行動心理学を引き合いに出して人間の本性は悪だと説明しようとする向きもある.しかし,フロイトの心理学は心が病んだ人を基本に組み立てられているので,それを健全な人には当てはめるのは間違いだ.動物実験のデータに頼る行動心理学も私たちの内面から湧き起こる動機などは完全に無視している.自己を成長させて自己実現したいと願う本性があるなら,その本性は善きものであると認めてそれを成長させるという姿勢が,生きがいを求める人の根本的な姿勢である.
内なる声:性善説に立って潜在的に持っている可能性を引き出すには,自分の「内なる声」に耳を傾けるしかない.周囲から「あれはだめ,これはだめ」と言われ社会のいろいろな制約など外部の雑音がやかましくて,現代人は心の深奥の微弱な声が聞こえなくなっている.しかし私たちを自己実現させるものは,私たちの内なるもの以外の何ものでもない.
小恍惚のすすめ:
人間としての気概:
自己探究としての知的生活:
知的正直のすすめ:
自分ライブラリーのすすめ:
知的時間術:
知的執筆術:
リソースフルのすすめ:
レトリックのすすめ:
第二部 歴史観を高めるための十九の視点
内なる伝統:
精神の源流としての記紀:
和歌の前の平等:
言霊思想と言挙げせぬ国:
聖徳太子イズム:
妙なる共存:
男性的原理・女性的原理:
大和言葉と漢語の語感:
「七生」という精神:
「まことの花」の教育論:
徹底分解の精神:
秀でた計数能力と経済感覚:
独自国家・日本:
国体は変化すれども断絶せず:
白人神話への大いなる嚆矢:
統帥権干犯問題:
東京裁判史観からの解放:
日本人の誇るべき三つの「刷り込み」:
文明を牽引する国・日本:

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