「東京大学第二工学部」という新書を借りて読んでみた.1942年の設置から9年後に消滅した旧制東京帝国大学の学部のことである.戦後に規模を縮小して生産技術研究所となり,跡地の大半は新制千葉大のメインキャンパスになった.幻の学部とも言われる.既に国内最大の工学部があったのに何故学科編成も規模も同程度の第二工学部を新設したのか?読んでみると当時の国家戦略が浮かび上がってくる.
圧倒的な工業生産力を誇る米国に大東亜が伍するためには工学技術者を大増員せねばならない.無謀とも思える米国との戦争に突入した背景にも,そのような理詰めのプランが存在したようだ.国家総動員法が制定された1938のあと,1939年には医学部と工学部からなる名古屋帝大(1942年理学部設置),そして藤原工業大(後に慶應の工学部となる)を設立している.また1941年には京城帝大に理工学部,1943年には台北帝大に工学部を設置している.横浜や神戸などの高等工業を大学に昇格させる案もあったようだが,これらは新制の横浜国大や神戸大の工学部となるまで実現しなかった.
実際には米国が開戦を急いだ?おかげで,第二工学部が戦時中に送り出した卒業生は1944年の1期生のみ,この間に行われた軍の委託研究も実戦配備されることはなかったという. しかし,研究成果は民生転用され,戦後日本の発展を中心となって推し進めた著名な学者や大企業の経営者などが多数育った.GHQの方針により一斉に新制大学が始動したのが1949年,募集を停止し第二工学部は1951年に第8期生を送り出して閉学する.その前年に勃発した朝鮮戦争の特需によって,日本は工業生産力を回復した.設置の思惑とは違ったものの,激動の10年間に優れた教育研究を遂行し,産業の発展に寄与したことが解った.
第二工学部は10学科69講座を有し,本郷の第一工学部の定員378名を上回る420名の入学予定数の日本最大規模の工学部として誕生した.1941年に設置が決まってから開学まで1年間しかなく,実際の施設整備は追いついていなかったようだ.誘致した千葉県と千葉市が用意した敷地に,予定していたRC造の資材がないので木造2階建ての学舎を建てた.学舎やインフラの整備は遅れ,入学者をがっかりさせたようだ.開学当初は稲毛駅から20分の徒歩を余儀なくされたが,まもなく西千葉駅が新設され,最寄りの京成浜海岸駅は正門近くに移動して帝大工学部前駅(現みどり台駅)と改称した.第一工学部の比較的若い教官と民間企業からの人材で教授陣を構成した.このことが,新進気鋭の熱意溢れる雰囲気を醸成し,敗戦後の復興に寄与したともいう.

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