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文庫本:「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける

 関 裕二 著 

日本という国の成り立ちを正しく理解したい.そんな思いでこの歴史作家の著書を10冊以上読んで来た.学者じゃない作家という立場から,こう考えれば矛盾なく歴史の流れを理解できるという話を展開しておられる.これまで飛鳥時代前後から卑弥呼やヤマト建国の地だという纏向遺跡に及ぶ著書を読み,徐々にヤマト建国の過程を想像できるようになった.今回の縄文時代の話に至って,かなりの納得感を得ることができた.

 現代日本人は縄文人の末裔であるという.教科書では,縄文文化は弥生文化に取って代わられ,弥生時代の延長線上でヤマトが建国されたと書かれている.しかし,それほど単純な歴史の流れではないことが概ね根拠立てて説明されている.端的なのが「頂きます」「ご馳走さまでした」という現代の日本人が広く食事の際にする言葉である.天地の恵みである生き物の命を犠牲にして自分の命が維持できる,そのことへの感謝が込められている.この言葉には,自然と共生しながら採取生活を送った縄文の思想が残っている.自然が許容する限りの人数で,争わずに恵みを分け合って平和に暮らして行きたい.島国日本に住む縄文人はそう願っていたという.

 北九州を中心に農業が広まり弥生文化が登場する.技術史的に観ると,先進技術の農業を持った集団が後進的な集団を従えていったと考えがちだ.縄文文化は弥生文化に取って代わられたという見方である.しかし,必ずしもそうではないようだ.縄文人は農業で富を蓄えると戦争が起きる社会になると理解していたという.海洋民族だった縄文人は,農業を導入した中国の戦乱の歴史を観てそう悟っていた.だから,縄文の日本で農業が広まるのに長い時間を要した.多くの地域で縄文社会は農業を慎重に少しずつ取り入れて行ったようだ.

古代社会で重要な材料だった鉄の交易ルートを巡って,北九州,出雲・吉備,但馬・丹波に北陸から東海辺りの3勢力が争ったようだ.北九州や出雲・吉備はそれぞれ朝鮮半島に通じる鉄のルートを独占してかかった.これに対抗して,但馬〜東海にかけての縄文色濃厚な地域が連合して纏向にヤマトを建国したという.この動きに驚いて,出雲・吉備連合は後からヤマトに合流したという.それが出雲の国譲りなのだろう.そして,先進地域であった北九州勢力は,ヤマト連合に攻められ降伏した.そう考える根拠が,土器や遺跡,人口移動,そして遺伝子分布に関する最新情報で示されている.縄文文化が弥生文化を飲み込んだということだ.個々の検証の正確さは判断できないが,全体としてとても納得感がある.中国への外交チャンネルを握っていた北九州国をヤマト連合が擬装したのが邪馬台国だというのが著者の既刊書による見立てである.

それでは何故神武天皇は南九州からやって来たのか?ここについては根拠だった説明が不足していると感じるが,遺伝子分布から南九州に居た海洋族が全国に散らばっていったと考えられる旨説明されている.大隅海峡にある鬼界カルデラの大噴火が全国に散らばるきっかけだというのだが,本当だろうか?海の神である住吉さんと南九州の関わりも既刊書で説いておられる.今後の研究の進展を待ちたい.

日本史を振り返ると,戦乱の後に平和を求める縄文社会への揺り戻しが起きてきたという.弥生時代には戦乱が広がり,倭国大乱を納めるためにヤマト建国となった.5世紀前後には朝鮮半島への軍事介入を繰り返すと蘇我氏が台頭し,平和な明日香時代となった.蘇我氏を滅ぼした藤原氏は一強支配で,共生社会ではなかった.藤原氏は政敵と繋がる関東の武士の弱体化をもくろんで,東北制圧に向かわせる.しかし,蝦夷征討は長期化してみな疲弊した.人びとは藤原氏を恨み,貴族社会を倒して武士の時代がやってきた.そして長い戦乱を経て,江戸幕府が争いに終止符を打った.

徳川家康は一神教のキリスト教を禁止して,平和な時代を開いた.一神教とは他の神の存在を許さない.つまり征服と一強支配による略奪を正当化する思想でもある.神を信じない野蛮人は同じ人間ではないのだ.一神教による恨みと復讐の連鎖で,民族紛争が現代まで続いている.平和な共生社会だった縄文とはまるで異なる.江戸時代は縄文回帰ではなかったのかと著者は述べている.実際のところ江戸時代には人口増加がほぼ無かった.農業を取り入れながら国土と共生できる人口の上限に達していたのだろう.人口増は概して先進技術と戦乱が入り乱れる時代に起きているものだ. 一神教のキリスト教は科学を発展させた.それは,創造主たる唯一神を信じているにもかかわらず災難にあうのは何故か?その不条理が生じる法則を考え求めたからだという.西洋科学は一神教の神を「人間の理性」にすり替え,人間が自然を支配・改造することを正当化した.西洋科学は強力な生産手段と軍事力を生み,自然破壊も進んだ.西洋の国家は世界を征服し,江戸時代の日本にも押し寄せてきた.幕末から明治初期にかけて日本を訪れた西洋人たちは,野蛮な異教徒であるはずの日本人の暮らしぶりを観て驚嘆したという.みなが笑って幸せそうに暮らしている.子供が大切に扱われている.西洋文明の進歩が本当に自分達を幸せにしたのだろうか?そんな疑問を西洋人に抱かせたそうだ.

日本がなぜ西洋国家の植民地にならずに済んだのか?西洋文化を取り入れて生産力と軍事力を強化した明治人の努力もあるが,その活動を許したのは西洋人に敬意を抱かせた縄文的社会の実態によるところがあるのではないか? かつて先進技術の農業を徐々に取り入れて弥生文化を飲み込んだ縄文の日本社会は,明治になって再び先進の西洋文化を飲み込み,世界の先進国に並んだ.明治から昭和にかけて,日本人は戦い続けけて来たのではないか?西洋の植民地支配に対抗する富国強兵,グローバル企業の経済支配への抵抗,次々にやってくる一神教文化を飲み込んでいく多神教文明が縄文以来の日本の姿ではないか?本当は平和に共生していた縄文時代に戻りたい,日本人はずっとそう思い続けて来たのではないかと著者はいう.

日本人は捕鯨をやめろと世界から叩かれている.鯨は知能が高等だから殺してはいけないという一方で,牛や豚は狭い檻に押し込んで生殖を管理し,肥えれば殺して食べる.ガチョウやアヒルに至っては,無理矢理餌を詰め込み脂肪肝にして食べる.動物にたいへんな苦痛を強いているではないか.高等か下等か,文明(=一神教の神の言葉)を信じるものは救い信じないものは野蛮と断じて殺す.どちらが野蛮だろうか?そんな連中にとやかく言われる筋合いはないだろう.

自然の恵みをほどほどに受け(=資源を管理し)て,感謝を捧げて命を頂くことがなぜ悪いのか? 日本人はどこへ向かって歩けばよいのだろうか?縄文人にとって,文明と農耕と一神教の成立こそ悪夢の始まりだった.そんな文明はやがて破滅するだろうと縄文人は必至で抵抗したのではなかったか.多神教を守り続けた日本人は,「やはり,どこかで間違っていた」と悔悟し,「あのころに戻りたい」と夢見ながら,それでも前に進まねばならぬ日常に戸惑っているように思えてならない.著者のこの言葉に,日本の歴史と現状が重なって見えてくる.

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