文学者の外山滋比古氏の「日本語の個性」という著書を読むうちに,ムダの必要性を説く一節に行き当たった.言葉のムダが意思疎通に重要な役目を果たすというのである.確かに,話の意図と違って伝わってしまうことは少なくない.学会での質疑応答のように問題意識が共有された場においてすら,単刀直入な会話では議論が噛み合わないこともしばしば見かける.若手担当者の頃,とある建築現場の工事課長から「現場では,大事なことはこれでもかというほど何度も言わないと伝わらない」とご指摘をうけたことを思い出した.更には「ちょっと面白いことでも言って印象に残しておかねば忘れられる」とも言っておられた.利害も多様な職人集団をひとつの目標に向かわせる現場の肌感覚だったのだろう.
著者によれば,話の尾ひれが大切だという.まくらだったり,たとえ話や比喩だったり,論理的には必ずしも必要のない部分が実は意思疎通を確かにする訳だ.それを5脚の椅子という比喩で説明されている.椅子が倒れないためには3脚であれば済むところ,実際に大抵の椅子は4脚だったり5脚だったりする.構造力学でいう不静定構造にも,力学的冗長さの一方で一部の部材が破断しても架構全体が崩れたりせず修復できるという頑強さがあるのに似ている.ムダと思える話の補強があってこそ,正しく理解できたり後々になって記憶が修復できたりする.授業の脱線話にもそんな意図があるのだろう.尤も時が経つと脱線話しか思い出せなかったりもするのだが.
さて,ムダのたとえ話は更に進み,人間はいろんなムダで成り立っているということになる.ただ働いて生きるだけでは人間ではないというのである.なぜ祭りをするのか?文学や芸術を求めるのか?生命体を維持するだけならムダでしかないそういった活動こそ動物とは異なる人間らしさ,つまり文化だということだろう.そんなことを考えている昨日の午後に近所の飲み仲間から連絡が入り駅前へ向かった.特段の目的がある訳でもない.いつものような酒とつまみを注文していつものような話をし,実際に得る新たな情報は会話量の10%にも満たない.そのうち実際に役に立つ情報がどれだけあるか?娘達が同級生という意外にしがらみのない気楽な居心地の良さもあるが,業界も職種も違う視線の話を聞くと気づきもあるものだ.そんな機会を重ねるうちに人となりを理解し,信頼関係ができてくる.ムダなようで貴重な時間である.地域の帰属意識が希薄になってコミュニティ崩壊の危機を招いた背景に,住民が個々の暮らしに特化して地域全体にムダな会話が減ったことがあるのではなかろうか?床几に座って道行く人と会話した夏の風情は過去のものになってしまった.一見ムダに見える会話の象徴的なものが挨拶だと著者は指摘する.おはようございますという言葉の意味を真に受ける人はほとんどあるまい.どうもどうも,と意味をなさない言葉を言うと言わないでは人間関係に大きな違いが生じる.部活でまずは挨拶せよと教えるのも,その場の構成員としての人間関係の構築という意味があるはずだ.挨拶の無視は人間関係の遮断を意味する.
さて,飲み会から帰ると珍しく家族が揃っている.ただいまと声をかけ冷房が効いたリビングに入ると,それぞれ思い思いに過ごしている.娘は何を想ったか変ったクッキーを焼いている.高校生になってから自宅で勉強する姿を見かけるようになった倅は,何やら参考書に向き合っている.その向かいに座って焼酎水割りを飲みながら,しばし思索のときが訪れた.目下工学部志望の倅は,理科の入試科目が物理と化学になるので高1で学ぶ地学と生物にはあまり熱が入らないようだ.ムダな勉強という訳ではないが,最近はあまり得意ではない数学に注力しているようだ.それが昨夜は古文に取り組んでいたので珍しいと思った.一見ムダと思えるような目的のない知識を一般教養と言ったりする.そんな知識のひとつひとつは役にたたないが,ある密度に集積すると互いに繋がりができて威力を発揮することがある.経験のない新たな局面に立ち向かうには豊富な一般教養がものをいう.新しい学問を拓くにも既存の専門知識よりは一般教養が大切である.そんな理屈も承知の倅は古文を終えてやおらギターを弾き始める.まぁこれも一般教養の類だろう.自分も音楽の知識が多少は仕事で役立った経験がある.尺八を吹くヤツだとすぐに覚えてもらうこともできた.
とにかく興味の対象に熱中するのは良いことだ.興味の対象が何であれ,ボーっと生きているよりはましだろう.そうこう考えるうちに眠くなりベッドに横たわったのだが,気付くと朝の7時である.いつもより2時間起きるのが遅かった.寝る時間も決してムダではない.そう自己弁護しつつ,思索を振り返ってこのムダな長文を書いたのだった.いつの日か読み返して何らか役に立つことを祈る.

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