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文化資本の差が社会格差を生む

格差社会は社会不安や不安定性を増すので良くないと言われる.格差社会とは,一般的には富の配分に関わる所得格差を指す.所得格差が少ない総中流社会ではベルカーブ(正規分布)のように中間層が厚くなるのに対して,格差が大きい社会では富がロングテール部分の富裕層に集中し,ショートヘッドに近い貧困層の人数が増える.40~50年前の日本は一億総中流社会などと呼ばれたが,近年は格差が拡大しているとの観測を耳にする.比較的近い2017年の日本の世帯所得分布をみると,平均所得が最頻所得帯より上方に位置しており,ベル型の正規分布よりも,いわゆるロングテール型の分布に近いことが解る.

よく見かける国際比較に国民ひとり当りのGDPがあるが,これはどちらかと言えば分布の平均値に近いので,実際には多くの国民はそれ以下の水準にあると理解せねばならない.格差の程度を測る指数としてジニ係数がよく参照される.格差が全くない場合は0で格差が大きいほど1に近づく指数である.所得の低い順に,横軸に世帯数の累積比,縦軸を所得の累積比として世帯間の所得分布を描いたものをローレンツ曲線という.格差が全くない場合は右上がり45度の直線となるが,分布があると直線より下方に膨らんだ曲線となる.このとき,A+Bに対するAの面積比をジニ係数といい,所得格差が全くないとき0,所得格差が大きいほど1に近づく.1は一世帯への完全一極集中の状態を示す.

それでも中国や米英よりは未だ,日本のジニ係数は低い水準で推移しているようだ.一方でスウェーデンなど日本よりジニ係数が低い国もある.

実際には格差があるのは所得だけではない.学歴によって個人の社会的な位置づけがラベリングされがちな教育格差がある.学歴社会という方が良いのかもしれない.例えば,大学入試の難易度と卒業生の30歳時の平均年収にはかなりの相関がある.誤解の無いよう,あくまで平均年収であって個々の年収ではない.

一般的に入試難易度が高い教育機関は歴史と伝統がある名門校の場合が多い.こういった名門校は各界との太い人脈チャンネルがあり,本人の能力と相まって社会的に優位な職に就くチャンスが豊富な傾向がある.更には入試難易度が高い名門校へ進学するためには公立学校のカリキュラムだけでは不足しており,塾などの学費確保には親の資金力が欠かせない.このような,自分では選べず自分の努力では挽回し難い与条件を「親ガチャ」と呼び嘆いているようだ.そんな言葉を見聞きすると,社会格差の固定化が気になったりする.固定化が進む先は階級社会,つまり出自が人生を決めてしまう社会である.話は少し違うのだが,大学の箱根駅伝も格差社会だという.青学や駒澤など,頻繁に上位10位以内に入ってシード権を獲得する大学には有力選手が集まるそうだ.確かに,今年優勝した青学チームは非常に選手層が厚いとも言われた.名門校に優秀な人材が集まるのと同じ構図だ.格差とは身の周りのいたるところにあるのだろうか?
さて,そんな格差が何故生じてしまうのか?という疑問を解く手がかりを与えてくれる記事をwebで見かけた※.完全に平等(ランダム=機会均等)な条件で経済取引を続けると,必ず格差(ばらつき)が生じるものだという.機会均等は自由競争の前提となるが,それは富の均等配分という結果の平等をもたらさず,むしろ必ず格差を生みやがて固定化されるのは,エントロピー増大のような自然の摂理だという.自由と平等(結果の平等)はそもそも相いれない状態らしいのだ.それなら自由を止めれば良いかといえば,これがなかなかそうはいかない.人類(特に西洋)の近代史は自由を希求した人民の軌跡だとさえいえる.身近なところでは,都立や千葉県立の高校入試に導入された学校群制度は,名門校と新設校の格差を均そうとした試みだったが,見事に失敗に終わっている.結果の平等に重きを置く共産主義国家の運営も多数が上手くいかなかった.完全な平等を実現するには,全人民の欲求を満たしつつ適切に役割を割り振る理想的な独裁者が必要なのかもしれない.しかし,独裁者が人間である限りまた,その未熟な能力と欲求に社会が振り回されるのが現実のようだ.プロレタリア独裁の実態はそんなところではなかったか?中共社会もまた,独裁体制を支える共産党員が特権階級となる階級社会のようだ.近代以前の貴族社会と何が違うのか?不勉強でよく解らない面もある.
リンク先※の記事によれば,自由と平等のバランスをとるには格差を均す努力を常に続ける必要があるという.税の累進課税や社会保障はそのような努力の典型である.日本のジニ係数は,そのような富の再配分の過程を経てかなり低減しているようだ.ジニ係数を低く抑えるしくみとして税の累進課税や社会保障がある.このような所得再配分によって日本のジニ係数は抑制されているが,一方で,再配分前の再配分前のジニ係数(つまり当初所得)は一億総中流と言われた1980年頃迄以降は拡大傾向が続いているようだ.

グラフを見ると,格差を均す努力はそれなりに効果をあげているように見える.しかし,そもそも再配分前のジニ係数の増加を抑制することができないものか?という疑問も生じる.例えば,スウェーデンは非常に大きな税負担で社会保障を手厚くし,日本より小さいジニ係数を実現して来たと思われる.弱肉強食の自由競争の緩和をせぬままに,格差が拡がっているという社会不安の蓄積を抑えきれるのか?そのような結果の平等の実現がかなり成功している一例にプロ野球のドラフト制度がある.最近は巨人V9のような優勝チームの固定化も抑制されているようだ.かなり強制力があり,選手の人権を無視しているとの意見さえある.それに対しても,フリーエージェントの導入など,試行錯誤が続いている.両立しないトレードオフの調整に知恵を絞るしか無いようだが,その前に国際競争力の強化の方が重要だと言う別の言い分もあるので難しいところなんだろうか.確かに国際社会は弱肉強食のように思えるところが少なくない.
※「格差は不当」と憤る人が気づいてない過酷な摂理

社会格差(富の配分における格差)と相関が高い要因に,本人の意思や努力が及ばない要因があるとの指摘が増えているような気がする.心身の健康や丈夫さ等という先天的な資質もさることながら,親の資金力や子弟の教育に対する意識の差が生む後天的な環境条件,いわゆる教育格差があると言われる.このような,本人が選択できず,本人の努力で回復できない与条件ことを巷では「親ガチャ」というようだ.ルーレットのように運を天に任さざるを得ない運命だが,そういった格差が出自によって固定に向かうとやがて階級社会になってしまう.人間の権利や命の価値に貴賤を設けないという人類平等の価値観が社会の平穏や持続的な発展を下支えして来たという歴史認識に立てば,その格差の解消や抑制の方策を考えねばならない.何の方策も無ければ格差が生じてしまうのは自然の摂理であるというのは上述※の通りである.
具体的な方策はともかく,教育格差のような非貨幣的な価値が何故富の配分に繋がるのか?という疑問に応えるひとつの学術的な説明が見つかった.「文化資本」という概念である.専門的なことは判らないが,社会科学ないし社会科の一般教養として有意義な知識のように感じたので,小生の理解のために以下にメモ書きを残してみることにした.
発端は,「東大入試に文化資本はいらない」と主張するSNSの投稿に疑問を呈する記事を目にしたことに始まる.上記の主張を投稿した人物は東大法学部で優秀な能力を認められている.一般的に文化人や教養人とは,知識が幅広く豊富で,社会活動に意識が高く,芸術的等の高い美意識を併せ持つ人格を指す.そんな人格を醸成する環境条件を文化資本と呼ぶようだ.高等教育を受けて社会の指導的地位に就く人材にはそのような知識と人格を身に着けうる優れた素養の持ち主を選定しようとする訳で,その典型的な象徴が大学入試だと理解している.しかし,その頂点を極める東大入試には,そんな環境はなくても,過去問を解ける学力さえあれば良いとの体験談を披露したものと推察する.もちろんご本人の資質や努力が並外れたレベルにあったのかもしれないが,そのような特異な事例を持って一般論を導く訳にはいかぬと異論が百出したようだ.そのような異論の背景となった学術的に整理体系化された理論があり,その基礎的な概念が「文化資本」ということらしい.下記のリンク記事がよく整理されて解りやすいように思う.
以下に記事の要点をかいつまんでメモしておく.
■文化資本の定義
文化資本とは単に収入のような経済資本だけでなく、言葉の使い方や振る舞い方、学歴、音楽や絵の文化的素養などに関する資本
■文化資本の事例
〇家庭環境:育った家庭内の書籍の数,音楽や美術等のファインアートに触れる機会,舞台等緊張した場面での立ち居振る舞いを見聞する機会など(運動能力の獲得機会等もその内か?)
〇学歴:優れた資質を持つ人材に向けた教育を受けた経験に対する社会的なラベリングないし社会的承認
■文化資本の様態
〇身体化された文化資本:身についた言語能力や教養・素養,技術・技能,感性等(そのうち,知能指数等で計測可能な学力又は知的情報処理力は後天的要因よりも遺伝要因が決定的な影響を持つとも聞く)
〇客体化された文化資本:譲渡可能で身体化された文化資本と相乗効果を発揮する物財.具体的には書物や絵画,楽器,道具,機械等の所有権や利用権(投資可能な経済資本が必要,学習塾へ通えるか否かも物財ではないがその延長かもしれない)
〇制度化された文化資本:学歴や資格等,価値ある能力や技術の保持を客観的に見える化したお墨付き
学校に代表される教育機関は,親が築いて家庭に蓄積した文化資本を子が受け継ぎ,学歴という形で文化資本に再固定する「場」となる
■3つの社会資本の関係と再生産
〇文化資本:家庭環境で身に着ける言語能力,それを元手にして取得する知識,能力,技術・技能,更にはそれらを用いて獲得する学歴や資格
〇経済資本:身に着けた文化資本を基盤に職業に就き,所得を得て経済資本を再生産する
〇社会関係資本:職務遂行のキーとなりうる人脈(伝手やコネ)をいう.それを構築し,保有する経済資本や文化資本の活用することで社会的地位の維持向上に資する
保有する文化資本が元手になり,社会活動のプロセスを通じて他の社会資本を形成する様々な利益と結びつき,価値を増殖・再生産していく.社会の分科会ともいえる,経済界,芸術界,宗教界,学術界等の「界」ごとに有効な資本や互いの関係性は異なる.
以上がリンク先の要旨だが,良い文化資本を得られるか否かには育った家庭の経済資本を含む家庭環境が大元となり,教育課程を経て学歴等の形で補強され,その後に得る経済資本や社会関係資本と相まって,経済資本を再生産していくという格差固定化のプロセスが示されている.尤もこのようなプロセスは統計処理された平均的期待値に対して当てはまることであり,個々の事象を観測すればそれなりのばらつきがあるはずだ.それにしても,格差を固定化する実社会のメカニズムの奥深さに比べると,トランプの大貧民(ド貧民)の格差再生産ルールなどはとても生ぬるく,革命がしばしば起きるのが必然なゲームであることが,よく解ったような気がした.
自分が親から受け継がせてもらったりもらえなかったりした社会資本,中でも文化資本の状況が相対的にどうだったのか?自分がこれまでの育児の過程で子達に受け継がせることができた文化資本がどうだったのか?そして今後何ができるのか?遺伝子を受け継ぐ次世代まで続くであろう格差社会にどう向き合って課題を抽出・解決していけば良いのか?そんな人生観に関わる示唆を垣間見た気もした.問題は有効な行動プランを描けるか否かなのだが…

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