スキップしてメイン コンテンツに移動

南海道とは?

古代の7道のひとつに南海道がある.紀伊,淡路,阿波,讃岐,伊予,土佐の6国から成る.今の四国4県と兵庫県の淡路島,そして和歌山県に相当する.兵庫県淡路市育ちの自分には,和歌山県が南海道の領域に含まれることに違和感があった.その違和感が解消されたのはごく最近のことである.ところで,話題から外れるが...東海道の国は全部海に面していると思っていたのだが,甲斐も東海道だったのかと今更ながらに気づく.

そもそも,淡路は小国といえども古代にはひとつの国として存在していた.紀元1世紀頃には朝鮮半島から出雲~吉備を経て畿内に至るルート上の海路にあり,朝鮮半島から輸入した鉄を鉄製品にする鍛造所があったという.淡路市黒谷にある五斗長垣内(ごつさかいと)遺跡がその痕跡らしい.しかし,この鍛造所は100年程で無くなってしまったそうだ.出雲の国譲りと関係しているなどと聞くところである.

律令時代になると,大和から四国へ至るルートは奈良盆地を南下して五条から紀伊の紀ノ川沿いに海へ下り,加太から淡路の由良へ渡るのが一般的だったようだ.由良からは小路谷で内陸に入って千草経由で大野へ至る.小路谷がこんなに重要スポットだったとは思ってもみなかった.大野には駅があったようだ.そして,福良から阿波の撫養へ渡るのが南海道ということである.兵庫県民の認識としてはどうしても神戸起点で四国へ向かう意識が先に立って和歌山から洲本経由で徳島へ続く経路がメインルートだとは想像がつかなかったのである.伊予の国府は松山じゃなくて今治なんだな...と図を見て気づく.

淡路は,中世は細川や三好の所領となり,戦国時代を経て江戸時代は阿波の蜂須賀藩の所領となる.ただし,戦国から蜂須賀と義兄弟となっていた稲田家が支藩的に淡路を所領とし,稲田家は大名クラスながら蜂須賀の家老に留まっていたようだ.明治になって,大名の直属迄が士族になることになって,陪臣の稲田家家老達は自分達も士族になるべく分藩運動を起こす.これに対して蜂須賀側が武力で稲田家を制圧すべく庚午事変が起きる.この事変の処分として淡路は阿波藩から切り取られて兵庫県に組入れられ,稲田家は淡路を離れて北海道静内の開拓へ向かった.喧嘩両成敗なのかもしれぬ.かくして,淡路は明治期に新たに構成された兵庫県の一部となった訳だ.そうでなければ徳島県だったかもしれない.

考えてみれば,神戸はひとときの福原京の時代以外は一が谷の合戦や湊川の合戦など戦場としてぐらいしか歴史に名を観ない.大阪京都の外港として明治期に建設された新興都市である.この神戸を発展させるために兵庫県が造られた訳だ.姫路の人達にしてみれば,神戸なにするものぞ!という気概なんだろう.神戸は畿内の摂津西部,姫路は山陽道最東端の播磨の中心に位置する.

今どきの常識に囚われていると理解できないことがあるようだ.

コメント

このブログの人気の投稿

中央省庁(1府13省)」の略称

政府の府省庁には英語表記を省略した略称があり,これが関係筋などで意外に使われている.代表的なのが大蔵省時代に金融機関が張付かせたMOF担である.大蔵省は財務省とその傘下の金融庁に再編されたが,MOFの略称は財務省に引継がれたようだ.ちなみに金融庁はFinancial Services Agency でFSAが略称のようだ. 一覧を眺めてみると,発音しやすいものばかりではない.MOFとMOFAは若干紛らわしいが,仮名書きにするとモフとモファ…やはり少し区別しにくいだろうか?発音しにくいと普及しないと思われるが,比較的発音しやすいのがMETIとMOE,それからMAFFとMLIT辺りかもしれない.文科省はMECSSTになるところをMEXTになっている.Xという文字は便利に使われているが,紛らわしい面もある.札幌G7会合で議長国の日本はGXを共同文書に入れようとしたが,分りにくいと不評で採用されなかったようだ.発音しにくいのはMHLWである.母音文字が無いことには少なくとも日本人には発音困難である.ちなみに,表には無いが,内閣官房はCabinet Secretariat でCASと略すようだ.画像の下部の出典にはその略称が使われている.こういう略称は国際的にも広く存在し,IMFやIEAなどの国際機関名や,政府の省庁の略称にもみられ,例えば米国の国務省はDOS,エネルギー省はDOEである.素直に〇〇省と言えば良さそうなものだが,国際標準に倣う流れなんだろうか?どちらかと言えば直接の名指しが憚られるときに用いる隠語のような気もする.存在を広く知られたくなかったMOF担などはその好例かもしれない.

42年前の国立大学の入試偏差値

卒業した大学の入試難易度がどれぐらいだったのか?と思って検索すると入学した翌1982年の進研模試の偏差値表が見つかる.工学部の偏差値は60だ.一方で,ベネッセの最新の偏差値表だと64である.この間42年で難易度に変化があったのだろうか?2つの表を見比べると,東北大と北大の間に位置することに変わりはない.全体的にプロットの相対的な関係は相似形なので,おそらく母数の違いではないかと推察する.難易度が上位の大学の入学定員が同じだと仮定し,正規分布に従うなら,表示の偏差値以上の人数が同数になるには60のときの母数に比べて64のときは母数が2倍でなければならない.しかし,42年前の共通1次試験の受験者数が約35万人なのに対して,直近の共通テストの受験者数は51万人なので1.5倍でしかない.1.5倍は偏差値にして2程度の差に相当するので,残りの2程度難化したのだろうか? 42年間で大学進学率は大きく上昇し,当時は無かった大学も多数設置されている.今や大学全入時代の到来とも言われる.4大進学者数は約41万人から約63万人へ,これも1.5倍に増加している.現役志願率61%から直近の志願者数を推定すると約67万人となる.これを偏差値算出の母数とすれば35万人の約2倍となる.受験産業の浸透によって,昔は国公立大志願者相当の受験生しか模試を受けなかったのが今は全志願者が利用することになったと考えると,母数の辻褄は合うことになる.所詮母数が異なる偏差値を比較しても仕方がないといえばそれまでだが,実態はどうだろうか? ちなみに,理工系の偏差値の変化を詳細に見ると,東大(理Ⅰ)の数値が75の最高値であることは変わりない.そこからの42年前の各大学学部の数値との差を0.7倍すると,偏差値60程度以上の領域では,最新の各大学学部の偏差値に概ね該当している.その推定値からの実際の偏差値の平均誤差に着目すると,学部別平均では工学部はほぼ0,理学部は-1,農学部は+2となっており,全体として農学部の難易度が上昇の傾向である.また,メインキャンパスが市内から不便な郊外に移転した広島大,金沢大,都立大,九州大では,学部に依らず移転のない他大学に比べて平均で3程度低下している.逆説的には,そういった要因で国公立大の入試偏差値の変化が説明できてしまう訳だ.

高麗橋は東海道57次の終点

久々にブラタモリを見てみると,東海道57次という聞き慣れないテーマである.東海道といえば,53次と思うところだ.しかし,東海道は近江と山城の国境で2つに分かれ,京都の3条大橋へ至る道とは別に,伏見,淀,枚方,守口の4宿を経て大坂まで続く道があったという. 国道1号が淀川東岸を通っているのは昔から知っていたが,今になってその由来に深く納得する訳だ.上方落語の野崎参りは,淀川を行く屋形船と道中の土手を歩く参拝客のやり取りがネタになっているが,あの道中こそ東海道57次なんだと思い返す.実家があった淀川西岸には,東海道本線が通っているのに,国道は西国街道しか無いのは何故だろうと,少し不思議に思っていたのである. ところで,この57次の東海道の終点は高麗橋だという.そんな橋があることは昔から知っているが,そんなに重要な場所とはつゆ知らず.あらためて地図を眺めると,大阪の中心市街と大阪城を隔てる横堀に架る橋という位置づけのようだ.東京の日本橋と同じく今は高速道路の高架下にある. 歴史の教科書にも記載して,もう少し世間に知らしめても良かろうと思うところだが,どうだろうか? 【参考】大阪市HPから抜粋して一部追記 高麗橋(こうらいばし) 諸元・アクセス 橋長:62.54m 幅員:11.00m 形式:アーチ橋 完成:昭和4年 行政区:中央区 河川名:東横堀川 アクセス:OsakaMetro堺筋線・京阪本線北浜駅 30番出口 およそ250m 徒歩4分      大阪シティバス「天神橋」 歴史・文化 高麗橋は,大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で,慶長9年(1604)には擬宝珠(ぎぼし)をもつ立派な橋となっていた.高麗橋という橋の名の由来には諸説あるが,古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来するというものと,豊臣秀吉の時代,朝鮮との通商の中心地であったことに由来するというものが主なものである. 高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ様々な業種の店が立ち並び,人々の往来が絶えなかった.そして橋の西詰には幕府の高札が立てられていた. 江戸時代に交通の要所など重要地点に架けられ,幕府が直接管理する橋を公儀橋と呼んだが,この高麗橋は公儀橋の中でも特に重要視されていた. 明治時代には里程元標がおかれ,西日本の主要道路の距離計...