大谷選手がベーブルース以来の1シーズン2桁勝利2桁本塁打の偉業を達成したというニュースを観る.本人は「今まで両方やる人が居なかっただけで,今後増えたら普通のことになるかもしれない」と語った.ベーブルースの記録は1918年のこと,報道記事には「元祖二刀流」などと書かれているが,ベーブルースは両方やる人ではなかったのか?と疑問を感じて当時の状況を調べてみた.確かにルースは強打者のイメージで,投手の記録を持つことは知らなかった.小学生の頃にハンクアーロンの714本超えが話題になったのでよく覚えている.
調べてみると,ベーブルースのメジャー在籍は1914年から1935年である.最初の6年間はボストン・レッドソックス,次の15年はニューヨーク・ヤンキースに在籍している.レッドソックス時代は主に投手として活躍し,1915年に18勝,1916年は23勝,1917年は24勝しているが,この3年間に投手以外で出場したのは限られていたようだ.翌1918年が13勝で本塁打11本となっている.ルース本人は毎試合出られる野手を希望したらしく,1918年に出場試合数は95,1919年に130と増加する.1920年にヤンキースへ移ってからは投手としての出場は殆ど無くなったようだ.そして,初めて2桁本塁打を記録した1918年のあと,ヤンキースのベーブルースは16年続けて年間20本以上の本塁打を放ち,うち11年は40本以上,最多は1927年の60本である.大谷選手の語った意味をようやく理解できた.ハンクアーロンの記録更新が同じ土俵上のことと解すれば,投手から野手(打者)への移行期に1度だけ達成した今回話題の記録は,少し意味が違っているかもしれない.
ちなみに,1900年からベーブルースのレッドソックス在籍最終年(1919年)迄をデッドボール時代,ヤンキース移籍初年から太平洋戦争開戦の1941年までをライブボール時代と呼ぶそうだ.デッドボールとは死球ではなく飛ばないボールのことをいう.死球をデッドボールというのは和製英語で,正しくは"hit by a pitch"というそうだ.知らなかった.ともかくデッドボール時代は大リーグ押しなべて打率が低く,ライブボール時代になって本塁打が増え打率も上がったそうだ.理由は様々説があるようだが,独断と偏見で影響がありそうなものを拾ってみると…
■1901年(ナ・リーグ)と1903年(ア・リーグ)に相次いでファウルをストライクにカウントするようになった.
■1920年にボールは汚れるたびに取り換えるルールとなった.1930年代後半まで球場には照明が無かったので,これで球がよく見えるようになった.また,意図せぬ変化球が減った.
■ルースの本塁打量産をに触発され,打撃法がアッパースイングでボールを打込むフリースイング理論が優勢となった.
■1909年にコルク芯のボールが開発され,1911年に公式球として規格化された.
様々議論はあるようだが,ア・リーグの平均打率は1910年の.243が1911年には.273へ,ナ・リーグでも1910年の.256が1912年は.272へ上昇したとある.いずれにせよ,ベーブルースがヤンキースに移籍して本塁打を量産し始めたことが両時代の境目となり,年間40本以上の本塁打を打つ強打者が何人も現れたという.
以上を振り返りつつ,大谷選手の言葉をあらためて振り返ってみると,その言葉通りに投手と強打者の双方をやる選手が今後増えてくる可能性に期待してみたい.もちろん投打の両立は極めて困難なことだが,その時に初めて,今回の記録が歴史的な意味を持つことになるのかもしれない.疑問を追ったおかげで勉強になった.

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