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文庫本:物語 スコットランドの歴史

 「物語 スコットランドの歴史」という文庫本を読み始める.国なのか国でないのか良く判らないが,北海道と面積・人口がほぼ等しい.人口だけ比べるとデンマークにも近い.現在も独立運動があり,2014年に独立の是非を問う住民投票が行われて英国に残留となったが,ブレグジット後に再燃しているようだ.個人的にはスコッチウィスキーの醸造所にはぜひ一度行ってみたい.そして,ユニオンジャックから青色が無くなるのは国旗のデザインとして忍び難いと思っている.

そのユニオンジャックだが,英国がイングランド,スコットランド,ウェールズ,北アイルランドの主に4つの地域から成る事実を象徴的に表現していると思っていたのだが,よく考えると元の旗は3つしかない.この辺の事情は,イングランドを含む4つの国と地域の歴史まで遡らねばスッキリしないようだ.

先ず,元となるそれぞれの地域の旗の由来である.聖ジョージは古代ローマ時代の兵士でイングランドの守護神と定められている.イングランドとは直接関係なく,定められた理由はよく判らないようだ.セント(聖)・アンドリュースは北海に面する街でピクト人の本拠地があったらしい.スコットランド最古でケンブリッジ・オックスフォードに次ぐ名門セント・アンドリュース大学があり,ゴルフ発祥の地だという.聖パトリックはスコットランド大司教でアイルランドでキリスト教の布教活動を行った.旗はアイルランド王国の筆頭騎士団として1783年に創設された聖パトリック騎士団の勲章や旗として使われていた.それぞれ各地域の守護神とされているが,ウェールズの守護神は聖デイヴィッドのようだ.聖デイヴィッド旗はウェールズの旗ではなく黒地に黄色の縦十字のらしい.

一方,それぞれの地域の歴史を確認しておく.大ブリテン島にほ元々ケルト系のブリトン人が住んでいたところへ,アングロサクソン系が移り住みアングロサクソン7王国を建国した訳のである.7王国を建国したのは3つの種族であり,ユトランド半島(デンマーク)に住んでいたジュート人のケント王国,その南方ドイツのシュレスヴィッヒ・ホルスタイン州当りにいたアングル人のノーザンブリア王国,マーシア王国,イーストアングリア王国,更にニーダーザクセン州の海辺にいたサクソン人のエセックス王国,ウェセックス王国,サセックス王国である.ケント王国はフランスとの結びつきを強めてカトリックを受入れ(カンタベリー大司教の就任),その後7王国に広まった.927年にウェセックス王国が7王国を統一してイングランド王国となる.

ウェールズのブリトン人は部族国家に分かれていたが,アングロサクソン人には征服されず独立を保つ.1258年にウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)が統治するウェールズ公国が成立するも,内部の権力闘争やイングランドの圧力で弱体化し,イングランド王太子がプリンス・オブ・ウェールズを名乗るようになってイングランドの支配下となった.1536年の連合法によってイングランドに併合された.

アイルランドにはケルト系のゲール人が住んでおり,ローマ人はこの地をスコティと呼んでいた.8世紀末からしばらくノルマン人(ヴァイキング)が侵入したが,1171年からイングランド王がアイルランド卿を名乗って英国支配が強まった.ノルマン人は土着文化に同化したが,アイルランド卿は英国人入植者とアイルランド人の族外婚やゲール語の使用を禁止した.1541年になるとアイルランド議会の決議に基づきイングランド王はアイルランド王を名乗ってアイルランド王国と称した.1816年に独立運動が起こり,1922年に北アイルランドを除く地域がアイルランド自由国として独立した.

スコットランドにはケルト系のピクト人が住んでいた.南方からブリトン人,アイルランドからケルト系スコット人(ゲール人)が侵入し,北西部のスコット人(ダルリアダ王国),北東部のピクト人(アルバ王国),南西部のブリトン人(ストラスクライド王国)や南東部のアングル人(ノーザンブリア王国)などの支配による群雄割拠となる.このうちダルリアダ王国とアルバ王国は合同してスコットランド王国となる.アルバ王国の宮殿があったスクーンに宮殿が置かれた.ちなみに,スコットランドは北西のハイランドと南東のローランドに大きく分かれるようだ.スクーンは現首府のエジンバラ北方のパース近郊に位置し,ちょうど双方の境界付近に当たる.ハイランドは古くからのスコットランド文化が色濃い地域のようだ.スコッチウィスキーの産地の多くがハイランドにある.ハイランドには平地が乏しい.ゲール語系のスコットランド語が用いられていたり,カトリックからプロテスタント(英国国教会)への改宗が進まなかったり,独自性を保っていたようだ.

スコットランド王国の成立後,王国はイングランド王国との勢力争いの傍ら,フランスとの同盟やフランス・イングランド両国を巻き込んだ三つ巴の王室の婚姻交流や交代を繰り返す.跡継ぎが無かったイングランド女王エリザベス1世の跡を,イングランド王の継承権を持っていたスコットランド王ジェイムス6世がイングランド王ジェイムス1世として1603年に即位し,両国は同君連合となった.この関係は,両国議会によって批准された合同法によって1707年にグレートブリテン王国の誕生へ発展した.

当初のユニオンフラッグは1603年にイングランド・スコットランド両国の国旗を合わせてできたようだ.現行のユニオンジャックが制定されたのは1800年にグレートブリテン王国とアイルランド王国の合併を定めた合同法によって1801年に連合王国が誕生したときになる.ウェールズも独自の旗があるようだが,早期にイングランドに併合され独立国として存続していなかったので用いられていない.ウェールズで赤いドラゴンが古くから象徴的に用いられていたとの説がある一方で,ウェールズの旗が定められたのは1959年のことらしい.デザインとしてもユニオンジャックに合わせるのは難しいと思われる.

さて,文庫本も最初の1/3ほどを読みつつ周辺知識をこれぐらい予習したので,このあとは理解が進むと期待したい.

その後1週間ほど要したが,何とか1冊を読み終えた.イングランドとは違う歴史を持つ国だったスコットランドはケルト系の色濃い独自文化を持つ地方である.イングランドと同化し,共に経済発展を遂げたが,ケルト系のゲール語話者やカトリック教徒が多数居たり,かつてのスコットランドを引きずっている地域も一部にあるらしい.身近なところでは,スコッチウィスキーの銘柄にはゲール語がよく登場する.アングロサクソンのイングランドよりは同じケルト系のアイルランドに近かったりする.元はアイルランドからやって来たスコット人の国だったり,北アイルランドに入植したスコットランド人が多くいたりするのだから仕方がない.

長い歴史のなかで,イングランドに同化発展しようとしたり,固有文化の維持と回帰によって独自の発展を期そうとしたり,紆余曲折を経て来たことが様々に書かれていた.いま再び活発化している独立運動が,これまで歩んできた揺らぎの範囲内に納まるのか否かは判らない.しかし,よくよく考えてみれば,程度の差こそあれ,情報や商品の流通を通じて首都圏発の文化に同化しようとしたり,地方の独自性を売りに観光立地を図ってみたり,そんなある意味矛盾した行動を同時並行的に繰り広げる多くの日本国内の地方と同類のように思えて来た.故郷の関西人マインドも同じである.日本の中にもそんな「誇り高き国」が各地にある.主義主張が違っても,出身地が同じというだけの同郷意識で連帯することも珍しくない.ときには方言に拘ってみたりもする.長らく廃止されていたスコットランドを代表する議会と地方政府が復活した訳だが,日本国内には各地に都道府県の議会と行政庁がある.さすがに独立運動には至らぬようだが,これが道州制ぐらいの単位でまとまると,あるいはそんな気になる地方も出て来るだろうか?そんな想いで日本史を振り返ってみると,ありそうな気もしてくる.この本が問うているのは,現代日本の地方が抱える様々な問題に通じるテーマのように思うのは大げさだろうか?いつの日か,現地のバーでスコッチウィスキーのグラスを片手に続きを学んでみたいと考えた.関係ないが,ようやく明日に禁酒期間が解けるので嬉しい.

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