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大阪の府立高校の進学先

 大阪の府立高校は府内全域で1学区になっているらしい.自分が大学生の頃は9学区あって,母校で大阪出身の学生は,それぞれ学区の1番校か2番校の卒業生が多かった.当時の1番校(より1校多い10校)には文理科なる学科が設けられていて熱心な進学指導がなされているようだ.その成果があったのか?難関大学進学者数の変遷を追って検証する記事がある.ここでいう難関大学とは,東大・京大・阪大・神戸大の4大学である.大阪なので進学者数が多い京阪神の3難関大学に最難関の東大を加えたもの,これ以外にも地方の旧帝大や一工早慶などもあるが,関西視点のボリュームゾーンは押さえているので、ひとつの指標になるだろう.

2021年,2006年,1992年という約30年間の3断面を見ると,いずれも北野が首位で岸和田が最下位である.北野は2006年の東大進学者数では天高に首位を譲っているが,関西では東大より京大を選ぶケースもあるので,ここはあまり気にするところでもない.北野は京大進学者数で全国1位を誇る.岸和田が最下位なのは他より人口が少ない学区なので仕方がない.中間帯は,三国丘・茨高・天高の上位グループとそれ以外の下位グループに分かれている.上位グループでは天高が上昇傾向で三国ヶ丘が低下傾向である.下位グループでは生野が低下傾向,大手前がやや上昇傾向だが,最近の豊中の急上昇が目に付く.豊中は9学区時代は北野と同じ学区の2番校だったのだが,10校の中位につけてかつての1番校グループ入りを果たした感もある.そうは言っても,全体的にはあまり変わり映えしないように思っていたが,よく見ると横軸のスケールが違っている.1992年の北野が260人ほどなのに対して,2006年は120人余りに半減し,2021年に200人弱まで回復している.私立に押されていた府立高校復活というところだろうか?

そんなことを考えながら母校の建築科の卒業生名簿を見ると,各人の出身高校が記載されている.母校は上記のグラフでいうと4番手なので,北野で顕著なように,トップ校になると進学者数はむしろ減る傾向もある.試しに高校別の人数を集計してみた(暇!).全部は無理なので新制初期の12年間(S29~40年卒)の322人と共通1次試験開始から4年間(S58~61年卒,自分は60年卒)の347人である.戦後まもない新制初期には兵庫県下の出身者が圧倒的に多かったのが,自分が学生の頃には大阪府出身者が多くなって,また近畿全般や中国四国からの進学も増えている.新制初期には灘高や甲陽からの進学も多かったのが,自分の頃にはほぼ無くなっている.兵庫県下では,神戸・長田・兵庫の市内3校に,加古川東と姫路西が昔から多いようだ.昔は多かった芦屋高は同学区内の神戸高へ収斂したのか?あるいは灘・甲陽へ流れたのだろうか?芦屋は金持ちが多いから特殊かもしれない.大阪府下では北野と同学区内2番手の豊中が多かったのが,自分が学生の頃には北野と豊中はやや減って他の学区1番校が増えている.1番校では神戸方面から遠い三国丘が少なく,2番手では八尾高や泉陽高の方が上位に入っている.関西他県の1・2番校もやや増加傾向だが,京都府下の高校がランクインしていない.京都で建築志望の学生は京大か京都工繊大に行ってしまうのかもしれない.中国四国では,何故か新居浜西高からコンスタントに進学者が来ているようだ.

だからどうなんだといえば,それまでだが,名門校のブランドは今後も維持されるだろうか?大学もしかり,高校もブランド化が進んで,これも社会の固定化の一環かもしれない.


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