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「財津和夫」と「財津一郎」の違い

白木みのる氏が2年前に亡くなっていたという記事廻りを追ううちに,財津一郎に間違って財津和夫宛のファンレターが届くことがあったという話を目にする.

財津一郎といえば吉本新喜劇の役者で乳ボーロのCMを思い出すのだが,吉本は早々に止めて東京で俳優や声優の活動に転じていたようだ.テレビの金八先生に出ていたとは知らなかったが,大河ドラマ「秀吉」の竹阿弥役と言われると合点がいった.知らなかったのが,CMの代表作だというタケモトピアノのCMである.観てみると,いかにも関西ローカルCMの作りだが,赤ちゃんが泣き止むと評判になって全国展開したようで,YouTubeには寝かしつけ用に1時間耐久版までアップされている.ちょっと知るのが遅すぎた.

ところで,財津和夫とは遠い親戚にあたるという.財津家の先祖は豊後国日田郡の士族である財津氏の末裔らしい.旧日田郡域の北部に今でも財津という字が存在している.戦国時代は大友氏の配下だったが,大友氏の没落後に熊本の細川氏に仕えて旧阿蘇郡を拠点としたとある.なかなか由緒正しい家系のようだ.名字由来netによれば財津さんは全国におよそ4,900人だそうで日田市を中心に主に大分,福岡,熊本などに分布している.いずれにせよ珍しい姓であるが,2人を間違える人が多いのか?webには違いを解説するページまであるのには驚いた.


「財津和夫」さんは、1948年2月19日生まれ、福岡県出身のミュージシャン・シンガーソングライターで、読みは「ざいつかずお」さん、本名も同じ「財津和夫」さんです。

1972年にメジャーデビューしたポップスグループ「チューリップ」の中心的人物で「心の旅」や「青春の影」、「サボテンの花」、「虹とスニーカーの頃」など数多くの楽曲を作詞・作曲、1978年からはソロ歌手としてもデビュー、現在までに数多くの名曲を輩出しています。

音楽活動と並行して1976年から俳優としても活動、テレビドラマや映画にも多数出演します。

2017年に大腸がんであることを発表し、現在は治療に専念するため芸能活動を休止しています。

「財津一郎」さんは、1934年2月22日生まれ、熊本県出身のコメディアン・俳優で、読みは「ざいついちろう」さん、本名は財津永栄(ざいつながひで)さんです。

1953年に上京後、榎本健一映画演劇研究所や帝劇ミュージカルで修業を重ね、喜劇役者や舞台俳優として活動、大阪に活動拠点を移し1962年に吉本興業に入り、1964年より現在の芸名を用いて吉本新喜劇に参加、1965年には吉本新喜劇の座長に就任します。

1960年代に一世を風靡した時代劇コメディテレビ番組「てなもんや三度笠」にも出演、「非ッ常にキビシ〜ッ!!」、「許して…チョーダイ!!」などのギャグで人気となります。

1969年に吉本興業を退社し、再び東京を活動の拠点とし、テレビドラマや映画にも多数出演します。

また、個性的なキャラクターから出演するCMが話題となることが多く「こてっちゃん」や「タケモトピアノ」などをはじめとした数多くのCMにもご出演されています。

現在は芸能活動を休止しており、死亡説もささやかれていますが、所属事務所へのタレント登録も継続されており、引退などの公式な発表もされていません。


なお、「財津和夫」さん、「財津一郎」さんともに熊本阿蘇地方をルーツに持つ熊本藩藩士の財津家を祖先としており、お二方は遠い親戚関係であるとされています。

■ Wikipedia 財津和夫
■ Wikipedia 財津一郎

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