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地方別人口の推移と将来推計

先日に取りまとめた都道府県の人口の推移と将来推計を地方ごとにグラフにしてみたら傾向が分かりやすくなったと思う.ついでに,第1回国勢調査(1920)より前の統計も拾って,ほぼ15年ごとに1880年(明治13年)まで遡る.1880年の総人口は約3,600万人,江戸期後半~明治初年に3,000~3,300万人と言われているので未だそれに近いが,1940年には7,000万人強に倍増している.1970年には総人口は1億人を超え,2000~2015年頃に1.27億人前後でピークを迎えている.

地方別に見ると,1880年には関東,九州,関西の人口がほぼ同数だったのが,特に1955~2000年にかけて3大都市圏で大きく人口が増える.特に1985年以降は関西と東海では概ね頭打ちになのに対して,関東では2015年まで増加を続ける.いわゆる1局集中の状況が顕著に現れている.2000年以降は,3大都市圏以外では人口減少に転じているが,出生率が高い沖縄だけは増加を続けている.2015年以降は全国的に人口減少に向かうが,主要都市の人口減少は小幅に留まり,大きな都市以外の人口が大幅に減ると予測されている. ちなみに,関東(山梨を含む現1都7県),信越(長野と新潟),北陸(富山,石川,福井),東海(中京3県と静岡),関西(2府4県)としている.

この先は2045年頃に1億人程度まで減少すると予測されている.東北や北海道では特に顕著な減少予測だが,その広い土地には予測に加味されていない可能性があるのではないかと思ったりもする.太陽光や風力発電など再生可能エネルギー発電の資源を軸に,食糧生産や森林など,循環経済や自然共生に資する資源が豊富に思われる.地球温暖化で気候も多少暖かくなるかもしれない.予測が外れることを期待したい.

明治以降の地方別人口構成比の推移を俯瞰すると,北陸・東海以西の西日本の人口構成比が65%だったのがほぼ50%まで低下している.関東の比率は一貫して上昇しており,東北,信越,北陸,中国,四国は低下が続く.北海道は1955年を境に増加から減少に転じている.

少ないエネルギーで暮らすには,コンパクトな都市が適しているという.必要な移動が徒歩や自転車で済むのが理想的である.仮に半径1~2kmの円を想定すれば,3~12km2の面積になるので,仮に人口密度を4,000~10,000人/m2とすれば人口1.2~12万人の都市となる.変域の中央値で計算すると3~5万人程度,その中心に鉄道の駅とタウンセンターがあるイメージとなる.そんな田園都市が各地の拠点に分布する国土である.明治の初め頃の都市はそんな規模が多かった.当時の移動はほぼ徒歩なので,考えてみれば当たり前かもしれない.

1880年に人口10万人以上の都市は東京,大阪,京都,名古屋,金沢の5つである.1908年には横浜と神戸が京都と名古屋に並び,金沢を除く6都市が人口40万人以上となる.1940年頃までは金沢,長崎,函館も,札幌,仙台,広島,福岡と人口規模で並び立っていたが,戦後の1955年以降は引き離される.それにしても,人口増の期間は対数目盛で概ね直線的に増えているので,成長率一定なんだと気づく.1925年の東京と横浜が落ち込んでいるのは,その後の市域大幅拡大(東京市は1932年,横浜市は1927~929年)の前だったからで,都市の成長が止まっていた訳ではない.

しかし,考えてみれば,大都市郊外のベッドタウンも上記の田園都市と似たようなところかもしれぬと思う.鉄道の駅ごとに構成される地域は上記と同規模になるはずだ.問題は車で行かねばならぬような立地の大規模SCが流通の主軸になっていることではないか?駅近商業が復活してテレワークが定着すれば,それで済むのかもしれない.鉄道が電化されて再エネ電源で運行できていれば,大都市も多少改造すれば良いのだろうか?車移動が必須な田舎暮らしよりは,よほど理に適っている.車はシェアリングを基本に,マイカーに乗りたい人は,高額の買取りやサブスクで嗜好品化に向かうのだろう.

過去から未来を予測するのは,現在のようにトレンドが変化しているときは難しいものだ.しかし,いろんな側面で注意深く過去を観察すると,何がしかヒントが見つかるように思われる.

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