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文庫本:日本語の発音はどう変わってきたか

東京駅で「日本語の発音はどう変わってきたか」と題する新書本を買う.新幹線に乗り込んで読み始める.学生時代の教養科目でこんな勉強をしたなと思い出す.天草版平家物語という宣教師がアルファベットで書き残した本を読んだはずだ.だけど奈良時代の万葉仮名は少々とっつきにくい.

学生時代に「パパとママは2度あうけど父と母は一度もあわないのは何故でしょう?」というなぞなぞがあった.勘が悪くて答えられなかったと記憶している.それはともかく,16世紀の「後奈良院御撰何曽」というなぞなぞ集に「母には二たびあひたれど父には一度もあはず」というのがあるらしい.答えは唇が会う回数だが,母なら唇はあわないはず.なぜ母には二たび会うのか?それは当時の日本語では,ファファだからである.国語学では有名な「は行音の変遷」の話だが,更に奈良時代になると母はパパだったという.ちょっと紛らわしい.

この文庫本には,奈良時代からの音韻の変化が解説されている.それで何が分かるかといえば,仮名の読みと違う不思議な仮名遣いのことである.上記の「あひたれど」もその一例だが,現代においては「会ふ」ではなく「会う」と発音通りに書く.時代を遡ると「会ふ」と発音していた頃があったようだ.奈良時代は漢語などの新しい語彙が増えたこともあり,総じて言葉が長くなったそうだ.元々は短い言葉を区別するのにしっかり発音を分ける必要があり,母音も8つあったという.何故そんなことが分かるかと言えば,漢字の音読みで言葉を記した万葉仮名に系統的な区別があるからだという.

なるほど.言葉が長くなると発音はルーズになり,パがファになるなどして,平安時代には母音も5つに集約されていろは歌47文字の平仮名が誕生する.それまで漢字で書いていたのが,平安時代は平仮名を使って発音通りに書くことができるようになる.これで筆記速度が上がり,源氏物語など散文の文学が発達する.しかし,更に発音はルーズになり,音便が登場したり「ゐ」と「い」や「を」と「お」,「え」と「ゑ」の区別もなくなってくる.鎌倉~室町時代には「ち」や「し」の発音も”chi"や"shi"に変化すると共に「ぢ」と「じ」の区別もなくなる.「ず」と「づ」も区別されなくなる.もはや仮名は発音通りでなくなってしまうのである.

鎌倉時代には貴族の教養である平安時代の和歌なども文字の書き間違いが多くなり,平仮名書きも至って読みにくくなってしまっていた.ここで古典を読み書きしやすいようにと藤原定家が工夫して漢字かな混じり文が始まったそうだ.ほー知らんかった.学校で学ぶ古典は漢字かな混じり文だが,源氏物語や枕草子の原文は,平仮名がベタベタと並ぶものだったらしい.そんなものが日頃の発音と違う仮名遣いで並んでいたら読むのに苦労するだろう.この頃から江戸時代まで,いわゆる旧仮名遣いが確立して使われていたらしい.ちなみに「は」「へ」「を」は現代でも発音と違ったままの仮名遣いで「わ」「え」「お」と使い分けられているが,それは文節の区切りを解りやすくする効用のためのようだ.現代仮名遣いはこの旧仮名遣いからガラッと変わるのだが,更に読み進んで理解したいところである.

2日が過ぎ,「日本語の発音はどう変わってきたか」を読み終える.日本語が大きく変化したのは奈良時代と室町・戦国時代と明治時代という印象である.それぞれ,漢語の大量流入,貴族から武家と庶民への社会基盤の移行とキリスト教文化の流入,そして西洋文化の大量流入,の時代である.最初の2つは予想通りだが,最後に残った話題は主に江戸時代の国語学研究の話である.鎌倉時代に藤原定家が進めた平安仮名遣いの整理,平仮名では理解できなくなってしまった雅語を漢字で書くこと,そして漢字仮名混じり文の発明は現代の国語にも濃い影響を残している.更に江戸時代に実証的に進展したのは,漢字の音読みの振り仮名の整理,そして五十音図の整理・作成である.

漢字には音読みと訓読みがあるが,音読みは中国語式の読み方であり,訓読みはその意味の和訳である.現代は外来語をカタカナで表記しているが,これは昔の中国由来じゃない外来語は原語音で表記しようとする方法である.しかし,その際にカタカナ表記で外国語の発音通りに表記している訳ではなく,日本語式にアレンジされている.実は,漢字の音読みも同じことであり,その仮名表記を定めるには日本人が漢字の中国音をどう認識し発音していたかを解明せねばならない.実際問題,中国語の発音には,必ず母音で終わる日本語の言葉とは違って,子音終りの音や"Kwa"など日本語にはない音を含んでいる.そのような音にどう仮名を充てるかという課題の整理が出来ていたことは,明治期に大量導入された新たな西洋由来の言葉の音を混乱なく表記する基盤となる.そもそも中国語も時代とその時代ごとに移動した中心地の変遷もあり,発音が固定化していた訳でもない.日本における漢字の音読みは,一般的には,呉音と漢音があるのはよく知られている.前者は飛鳥時代以前に仏教の伝来と共に伝わった江南の六朝時代の音であり,主に仏教用語が多い.呉音は主に僧侶が後々まで伝えて来た.後者は奈良時代以降の律令時代に範を求めた隋唐時代の音であり,音読みの中で多数派を占める.漢音は主に貴族が後世まで伝えて来たものだ.もう一つは更に時代が下がって日宋貿易の頃に輸入品名と共に流入した唐音であり,これは少数ながら,特定の品物名等と関係しつつ存在する.

一方で,現代中国語では呉音も漢音も唐音も忘れ去られ,ただ現代中国語音あるのみだ.一方で,日本では庶民が文化の担い手になった機会に,僧侶の文化も貴族の文化も武家の文化も全て一緒くたに浸透してしまったので,音読みにも3通りが引き継がれてしまったそうだ.「銀行員の行雄は,修行のために諸国行脚を行った」という一文の「行」のうち,「行(ゆき)雄」と「行(おこな)った」の2つは訓読み,「銀行(こう)」は漢音,「修行(ぎょう)」は呉音,「行(あん)脚」は唐音らしい.子供の頃に漢字テストが苦手だったのはやむを得ないと思う.昔の中国由来以外の外来語に,新たな漢字の訓読み表記を付与せずカタカナ表記にして貰ったのは,たいへんありがたいと思う.一方で,外来語の日本式アレンジの伝統は,外国語の取得の足を引っ張っている面もあるだろうか?

もうひとつ,いろは歌が平安時代から利用されていたのに対して,五十音図が江戸時代の国語学研究で生まれたものだということは知らなかった.五十音図の母音のみの列は「あいうえお」だが,実は宣教師が室町・戦国時代にアルファベットで書き残した文献では"o"と”wo”,"e"と"ye"は書き分けられていたのが,同じ音に統合されたという.前者に関しては「お」と「を」の仮名が「を」に統合され,後者の区別はどうやら平安時代以降の日本人には無意識だったので,平仮名でも書き分ける文字の区別はなかった.初期の五十音図では,あ行は「あいおえを」と書かれていたのそうだが,江戸時代の本居宣長は現代と同じく当時のあ行の"a","i","u","e","o"という音韻と昔の平仮名を対応させ,五十音図のあ行を「あいうえお」に修正したそうだ.ここで,や行の”yi”と"ye",わ行の"wu"に対応する平仮名がないことが明らかになり,いろは歌47文字以前の古代音韻の探究に一矢報いたようだ.五十音図のような体系化された知識から国語の音韻を教わった身とすれば,その基盤となる常識が無かった頃の混沌とした研究並びに日常言語の混乱が俄かに想像できていなかったと思う.尤も今でも古来の音韻を引きずっている地方の言葉もあるようなので,御老人達の存命の内に取材して解明しておくべきかもしれない.

明治期は西洋文化の輸入に忙しく,国語学はただ江戸期の成果を引き継いでいたようだ.その流れが転換され,実際に今の日本人が日常使っている現代仮名遣いが示されたのは,戦後1946年の「当用漢字表の実施」と「現代の国語を書き表すための仮名遣いのよりどころ」という告示,訓令である.これが1981年の常用漢字表と1986年に現代仮名遣いに受継がれ,その後も一部改訂されながら国語表記の規範となっている.何だか憲法にも似た経過のようにも思えるが,いや,日本語は日本人が登場して以来,長きにわたって変遷してきたと想像される.日本人にとって,憲法の比でもない強い社会基盤を形成しているのが日本語であるというのが読後の感想である.願わくば,この読書で得た知識が,facebook の書込み時にも,何らか役立つと期待したい.とても長文になってしまったが,自分の備忘のための記事であることを書き添えておきたい.この記事を読んで頂いた方々には最上級の感謝を申し上げる.

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