国立大学の中で旧7帝大が最上位に位置付けられているのは,帝国大学令に基づいて総合大学として設立されたことによる.その他にも旧制官立大学はあったが,それらは大学令による単科大学である.尤も戦前の旧帝大がみな総合大学だったかといえば,実際には北海道,名古屋,大阪の各帝大は理系学部しかなかったが,旧制時代の枠組みは戦後もずっと引継がれているようだ.
それでは何故7つなのかといえばよく分からないが,どうも明治5年に発令された学制に遡るのではないかと推察される.これは全国を8つの大学区に分け,それぞれに大学を設置する構想である.翌年に7大学区に改訂され,東京府,愛知県,大阪府,広島県,長崎県,新潟県,宮城県への大学設置が想定される.この改定では,石川県への設置が除外され,青森県から宮城県へ変更されている.
実際には,明治10年に東京大学(法・医・文・理の4学部)が設置されたのみである.学制は理想論が過ぎて明治12年の教育令の制定によって廃止され,明治19年の帝国大学令で東京大学が帝国大学となり,同年の中学校令で第一(東京),第三(大阪),第二(仙台),第四(金沢),第五(熊本)の5学区と山口,鹿児島に計7つの高等中学校が翌年迄に設立される.このうち,第三高等中学校は明治22年に大阪から京都へ移転する.当時の都市人口ベスト5は東京・大阪・京都の三都と名古屋・金沢である.山口と鹿児島は明治維新政府の中心となった薩長の影響なのだろう.また,熊本は福岡・長崎・鹿児島と人口がほぼ同等の九州を代表する都市であり,地理的にそれらの中間に位置している.
その後,明治27年の高等学校令で第一~第五の各高等中学校は高等学校となり,明治33年に第六(岡山),明治34年に第七(鹿児島),明治41年に第八(名古屋)の各校が設立される.第六の誘致では岡山と広島が争った.第九設立を巡っては新潟と松本が誘致合戦を繰り広げたが,これら2校を含めて大正8年の第二次高等学校令以降に設立された高等学校は番号ではなく地名を名乗ることになる.この高等学校の設置場所にも,大学区の区割りは実質的に引継がれているようだ.その後,実際に帝国大学が設置されたのは,東京,京都,東北(仙台),九州(福岡),北海道(札幌),大阪,名古屋だが,やはり7大学区の設置構想に近似しているように思われる.
一方で,地方区分も7区分が一般的となっており,概して第四大学区に相当する中国四国の広島も設置候補に入るだろう.同じ大学区内の主要都市である京阪2都市への設置については,東京,京都と並んで三都と称する大都市大阪の官民が,熱意ある設置運動を行ったことによるようだ.その経緯を考えると,大正から昭和中期まで京阪東名と並んで6大都市と称された横浜と神戸への設置も可能性が考えられたかもしれない.実際には,帝大が未設置学区の広島と,神戸や東京に,大正7年発令の大学令によって設置された広島文理大(昭和4年,現広島大),神戸商業大(昭和4年,現神戸大),東京文理大(昭和4年,現筑波大),東京商科大(大正9年,現一橋大),東京工業大(昭和4年)の旧五官立大学が設置されている.後に大阪帝大へ発展した大阪医科大学(大正8年)と大阪工業大(昭和4年)も大学令による旧制官立大学だったことを考えると,旧五官立大から戦後に総合大学へ発展した筑波(元東京教育大)・神戸・広島の三大学が,旧帝大に発展していく可能性もあり得たのではないかと思ったりする.横浜に旧制官立大が設置されなかったのは,3つの官立大学が設置された東京が近すぎたからだろうか?

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