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三宮駅の変遷

意外に知らないことは多いものだ.神戸の代表的な駅といえば三宮駅である.しかし,開業当時のJR三宮駅は現在の元町駅の場所にあったそうだ.えぇ~知らんかった.駅名の由来となったのは近くにあった三宮神社だという.えぇ~,そうなんや.あらためて地図を見ると,大丸の筋向いに確かに三宮神社というのがある.ここはもう何度通ったか分からないほど通っているのだが,そんな神社の存在も記憶になかった.三宮神社は旧居留地の北端に接するように立地している.境内には備前藩の大名行列と外国人の間で起きた神戸事件の碑があるという.それにしても,三宮の神社といえばやはり生田神社である.摂津の三宮が生田神社なのだと勝手に思い込んでいたのだが,あらためて調べてみると,摂津の一宮は住吉大社だが,二宮,三宮は不詳らしい.そして,生田神社は延喜式に載っているが,三宮神社の名はないようだ.三宮神社の公式HPには「祭神は 天照大御神の御子である 女神 湍津姫命」とあるが,「航海の安全と商工業の繁栄を守る神として古くから一般の崇敬厚い」とはいうものの,古い記録がないので創祀などについては極め難いと書かれている.やはり生田神社の方が由緒正しそうである.

それはともかく,wikipediaによれば,三宮駅は,大阪~神戸間に鉄道が開通した1874年に現元町駅の場所で開業したそうだ.ターミナルの神戸駅に対して,旧居留地の最寄り駅という位置づけだったと思われる.これまた知らなかったが,明治初年には,生田川は現在のフラワーロードの経路を流れていたのが,旧居留地の水害防止のため1871年に付替工事を行い,翌1872年に跡地がフラワーロードになったそうだ.現在のJR三宮駅はフラワーロードの東側なので,当時は駅ができるような立地では無かっただろう.その後の都市計画で,鉄道の高架化に併せて1931年に三宮駅は現在地に移転している.この間に神戸市の人口は約4万人から20倍の80万人に増加し,市域も現在の中央区と兵庫区の範囲だったのが北・西・垂水の各区を除くインナーシティ全域に拡大しているので,市街地もかなり変貌したと推察される.そして,駅が移転した年に南京町に隣接する現在の元町商店街辺りが元町通という町名となり,1934年に再び現在の元町駅が開業したという.神戸のもとの町という訳である.つまり,1874年から1931年までの57年間は,現在の元町駅が三宮駅だったのだが,三宮駅が神戸市街の中心駅であったことに変りはない.

一方,阪神の三宮駅は1905年に路面電車形式の神戸雲井駅として開業し,1912年に三宮駅と改称したそうなので,現在の三宮駅の場所で三宮を名乗ったのは阪神の方が先になる.当時は路面電車形式で更に南に下った現在の国際会館の位置で,後の市電となる神戸電気鉄道と接続していたそうだ.しかし,国道2号線の拡幅を受けて1933年に軌道を地下化し,現在の地下の三宮駅をターミナルの神戸駅とした.これが1936年に元町まで延伸して新たなターミナルを神戸駅とした際に,再び三宮駅に戻っている.1933年頃のそごう神戸店が写る写真を観ると,ちょうど国道2号線が拡張工事中(写真左側)である.後に阪神電鉄本線がこの地下に建設された訳だ(出典:wikipedia,三宮駅による).JR三宮駅の移転の2年後になる.

阪急三宮駅は1936年にターミナルの神戸駅として開業し,1968年の神戸高速鉄道への乗入れ開始時に三宮駅と改称した.阪神の元町駅も同年の神戸高速鉄道への乗入れの際に神戸駅から改称したのかもしれないが,これは未確認である.

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