スキップしてメイン コンテンツに移動

日本史の77年周期

正月は元日の北陸での大地震に続いて,今日は羽田空港での大惨事である.妻の実家で夕飯を頂く間にJAL機が燃え尽きていく様を見届けることになる.2024年は波乱万丈の幕開けだ.今年は日本も含む世界の主要国で選挙が続く.歴史の潮目になるかもしれないと感じる.文庫本をひも解くと,日本近代史の77年周期という話が載っている.明治維新から77年後が第二次世界大戦の敗戦,その中間の1905年に日露戦争に勝って世界の列強の一角に分け入り,慢心してその後に破滅に向ったという.そして敗戦後77年目が2022年である.その中間は1983年頃で日本経済は絶好調,ジャパンアズナンバーワンと題する著書が日米などで売れて東京ディズニーランドが開園する.戦後の高度成長で世界の工場となって,再び世界の一流国に並ぶ.そんな地位に慢心したのか,2度目も地位から転げ落ちたというのが77年周期説である.そしてバブル経済の崩壊から失われた30年を経ていまどん底にいるという訳だ.この他にも80年周期説を唱える新聞記事があったりする.

日本史年表と上述の周期を重ねてみると,確かに一理ありそうな気もする.そこで,試しに77年周期を江戸時代まで延長してみる.江戸時代は総じてデフレ時代だったと聞いた気もするが,元禄と幕末はインフレだったようだ.元禄のインフレは貨幣の改鋳で質を落としたことが原因との見方があるようだ.貨幣の改鋳は何度もやっているが,質を上げる改鋳は正徳・享保の改鋳だけのようだ.このときは緊縮財政のせいもあってかデフレにはなったが,財政は次第に回復して体制維持の目的は一定程度果たしたとの意見もあるようだ.信頼に足る数値データなどは無いものの,定性的な年表を追ってみると意外に周期に載っている気もする.マイルストーンとなる敗戦,明治維新から遡ると,寛政の改革,享保の改革,そして参勤交代や鎖国で幕藩体制が完成した頃が概ね周期的に並んでいる.80年周期よりは77年周期の方がややしっくりくるだろうか?ともかく,歴史から学べるものは学ばねばならぬ.

いずれにせよ,再び浮上するには,今年辺りで底打ちして国力の向上に向けた変曲点にせねばならない訳だ.こういうときには政治の力が必要である.しかし,その力が現政権にあるかといえば疑問を感じざるを得ない.パー券騒ぎなどしている暇はなかろうと思うのだが,与党も野党も全くダメダメである.某国の工作だとかいう噂も,あながち否定できないとの疑念を抱きかねない.一方で,英雄待望論になったときがいちばん危ないともいうのだが,そういう人物も見当たらない.もうどうすれば良いのだろうか?そして,韓国では野党の党首が刃物で刺されたという.ウクライナやパレスチナに留まらず,全く嫌な雰囲気の時代である.なかなか先行きが見通せないところ,新たな時代に向合う覚悟が試されているのかもしれない.

コメント

このブログの人気の投稿

中央省庁(1府13省)」の略称

政府の府省庁には英語表記を省略した略称があり,これが関係筋などで意外に使われている.代表的なのが大蔵省時代に金融機関が張付かせたMOF担である.大蔵省は財務省とその傘下の金融庁に再編されたが,MOFの略称は財務省に引継がれたようだ.ちなみに金融庁はFinancial Services Agency でFSAが略称のようだ. 一覧を眺めてみると,発音しやすいものばかりではない.MOFとMOFAは若干紛らわしいが,仮名書きにするとモフとモファ…やはり少し区別しにくいだろうか?発音しにくいと普及しないと思われるが,比較的発音しやすいのがMETIとMOE,それからMAFFとMLIT辺りかもしれない.文科省はMECSSTになるところをMEXTになっている.Xという文字は便利に使われているが,紛らわしい面もある.札幌G7会合で議長国の日本はGXを共同文書に入れようとしたが,分りにくいと不評で採用されなかったようだ.発音しにくいのはMHLWである.母音文字が無いことには少なくとも日本人には発音困難である.ちなみに,表には無いが,内閣官房はCabinet Secretariat でCASと略すようだ.画像の下部の出典にはその略称が使われている.こういう略称は国際的にも広く存在し,IMFやIEAなどの国際機関名や,政府の省庁の略称にもみられ,例えば米国の国務省はDOS,エネルギー省はDOEである.素直に〇〇省と言えば良さそうなものだが,国際標準に倣う流れなんだろうか?どちらかと言えば直接の名指しが憚られるときに用いる隠語のような気もする.存在を広く知られたくなかったMOF担などはその好例かもしれない.

42年前の国立大学の入試偏差値

卒業した大学の入試難易度がどれぐらいだったのか?と思って検索すると入学した翌1982年の進研模試の偏差値表が見つかる.工学部の偏差値は60だ.一方で,ベネッセの最新の偏差値表だと64である.この間42年で難易度に変化があったのだろうか?2つの表を見比べると,東北大と北大の間に位置することに変わりはない.全体的にプロットの相対的な関係は相似形なので,おそらく母数の違いではないかと推察する.難易度が上位の大学の入学定員が同じだと仮定し,正規分布に従うなら,表示の偏差値以上の人数が同数になるには60のときの母数に比べて64のときは母数が2倍でなければならない.しかし,42年前の共通1次試験の受験者数が約35万人なのに対して,直近の共通テストの受験者数は51万人なので1.5倍でしかない.1.5倍は偏差値にして2程度の差に相当するので,残りの2程度難化したのだろうか? 42年間で大学進学率は大きく上昇し,当時は無かった大学も多数設置されている.今や大学全入時代の到来とも言われる.4大進学者数は約41万人から約63万人へ,これも1.5倍に増加している.現役志願率61%から直近の志願者数を推定すると約67万人となる.これを偏差値算出の母数とすれば35万人の約2倍となる.受験産業の浸透によって,昔は国公立大志願者相当の受験生しか模試を受けなかったのが今は全志願者が利用することになったと考えると,母数の辻褄は合うことになる.所詮母数が異なる偏差値を比較しても仕方がないといえばそれまでだが,実態はどうだろうか? ちなみに,理工系の偏差値の変化を詳細に見ると,東大(理Ⅰ)の数値が75の最高値であることは変わりない.そこからの42年前の各大学学部の数値との差を0.7倍すると,偏差値60程度以上の領域では,最新の各大学学部の偏差値に概ね該当している.その推定値からの実際の偏差値の平均誤差に着目すると,学部別平均では工学部はほぼ0,理学部は-1,農学部は+2となっており,全体として農学部の難易度が上昇の傾向である.また,メインキャンパスが市内から不便な郊外に移転した広島大,金沢大,都立大,九州大では,学部に依らず移転のない他大学に比べて平均で3程度低下している.逆説的には,そういった要因で国公立大の入試偏差値の変化が説明できてしまう訳だ.

高麗橋は東海道57次の終点

久々にブラタモリを見てみると,東海道57次という聞き慣れないテーマである.東海道といえば,53次と思うところだ.しかし,東海道は近江と山城の国境で2つに分かれ,京都の3条大橋へ至る道とは別に,伏見,淀,枚方,守口の4宿を経て大坂まで続く道があったという. 国道1号が淀川東岸を通っているのは昔から知っていたが,今になってその由来に深く納得する訳だ.上方落語の野崎参りは,淀川を行く屋形船と道中の土手を歩く参拝客のやり取りがネタになっているが,あの道中こそ東海道57次なんだと思い返す.実家があった淀川西岸には,東海道本線が通っているのに,国道は西国街道しか無いのは何故だろうと,少し不思議に思っていたのである. ところで,この57次の東海道の終点は高麗橋だという.そんな橋があることは昔から知っているが,そんなに重要な場所とはつゆ知らず.あらためて地図を眺めると,大阪の中心市街と大阪城を隔てる横堀に架る橋という位置づけのようだ.東京の日本橋と同じく今は高速道路の高架下にある. 歴史の教科書にも記載して,もう少し世間に知らしめても良かろうと思うところだが,どうだろうか? 【参考】大阪市HPから抜粋して一部追記 高麗橋(こうらいばし) 諸元・アクセス 橋長:62.54m 幅員:11.00m 形式:アーチ橋 完成:昭和4年 行政区:中央区 河川名:東横堀川 アクセス:OsakaMetro堺筋線・京阪本線北浜駅 30番出口 およそ250m 徒歩4分      大阪シティバス「天神橋」 歴史・文化 高麗橋は,大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で,慶長9年(1604)には擬宝珠(ぎぼし)をもつ立派な橋となっていた.高麗橋という橋の名の由来には諸説あるが,古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来するというものと,豊臣秀吉の時代,朝鮮との通商の中心地であったことに由来するというものが主なものである. 高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ様々な業種の店が立ち並び,人々の往来が絶えなかった.そして橋の西詰には幕府の高札が立てられていた. 江戸時代に交通の要所など重要地点に架けられ,幕府が直接管理する橋を公儀橋と呼んだが,この高麗橋は公儀橋の中でも特に重要視されていた. 明治時代には里程元標がおかれ,西日本の主要道路の距離計...