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お札の肖像

あと4か月すると新紙幣を手にするようになる.電子マネーが普及しても,やはりお金といえば現金,殊更お札を思い浮かべるのではないだろうか?お札に印刷される肖像は,国の発展に寄与した偉人の代表として国民の記憶に残ることになる.これは,我が国だけでもなく,海外でも見られることのようだ.あらためて,戦後に流通した日銀券の肖像になった人物を振り返ってみた.

分類すると,政治家と学者・文化人が二大カテゴリのようだ.頭の良い子に末は博士か大臣かなどと期待する通り,これらが偉人の代表なのだろう.ところが,分類に困ったのが今回一万円札に採用される渋沢栄一である.農民から武士として一橋家の家臣に取立てられ,徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となる.明治政府では民部省から大蔵省に勤め,退官後に数々の企業や団体,及び学校等の設立に携わった.第一国立銀行の設立をはじめ,多数の事業会社を起業し,商工会議所や証券取引所,日本赤十字社,一橋大学の前身など多数の教育機関の設立にも関わっている.実業家というのが妥当と思われるが,今後このカテゴリに該当する人物はあるだろうか?実業家といえば,三菱財閥を興した岩崎彌太郎が思い浮かぶが,むしろ「論語と算盤」の著者として,二宮尊徳のような実業に長けた思想家という位置づけなのかもしれない.松下幸之助なら可能性はあるだろうか?

7月から発行される紙幣:渋沢栄一,津田梅子,北里柴三郎

戦後に発行されて来た紙幣の一覧

主要紙幣の肖像の変遷

個人的に懐かしい紙幣
特に,聖徳太子,伊藤博文,大隈重信,板垣退助

■政治家

聖徳太子:一万円札,五千円札の記憶だが,その前は千円札,百円札にも採用されていた.1930年~1984年の54年間にわたって高額紙幣の代名詞だった.飛鳥時代の皇族で政治家である.しかし,昨今はこの肖像は聖徳太子ではないとか,聖徳太子という人物すら実在しなかったと言われている.

伊藤博文:1963年~1984年の21年間千円札に採用された.明治時代の政治家で,初代首相である.

大隈重信:1951年~1994年の43年間五百円札に採用された.明治時代の政治家で教育者,早稲田大学の創始者である.

板垣退助:1953年~1974年の21年間百円札に採用された.明治時代の政治家で自由民権運動の指導者である.伊藤博文,大隈重信と並んで憲政の三巨人とされる.

高橋是清:明治~昭和初期の政治家,1951年~1958年までの7年間に50円紙幣に採用された.

武内宿禰:古代の豪族で蘇我氏の始祖などと云われるが,実在しない伝説上の人物だという.1889年~1958年まで一円札に採用されていた.

■学者・文化人

福沢諭吉:1984年から2代にわたって一万円札に採用されて来たが,40年ぶりにその地位を明け渡す.幕末~明治期の思想家で教育者,慶應義塾の創始者である.

新渡戸稲造:明治~昭和初期の農学者で思想家,1984年~2007年の23年間五千円札に採用された.

樋口一葉:明治時代の小説家,2004年から20年間五千円札に採用された.

津田梅子:明治時代の教育者で津田塾大学の創始者.2024年から五千円札に採用される.

夏目漱石:明治時代の小説家・学者で,1984年~2007年の23年間千円札に採用された.

野口英世:明治~昭和初期の医学者で,2004年から20年間千円札に採用された.

北里柴三郎:明治~昭和初期の医学者で,2024年から千円札に採用される.

二宮尊徳:江戸時代後期の農政家で思想家,1946年~1958年の12年間一円札に採用された.

■実業家

渋沢栄一:明治~昭和初期の官僚で,実業家となる.2024年から一万円札に採用される.

■その他(人物以外)

守礼の門:2000年を記念して発行された二千円札には琉球の象徴である守礼の門が採用された.

国会議事堂:1946年~1955年の9年間拾円札に採用された.GHQが肖像の採用を不適としたという.

大黒天:七福神の一柱で食物・財福を司る神,1885年~1958年の73年間一円札に採用された.

更に後世の日銀券にはどのような人物が採用されるだろうか?昨今は国民の尊敬をあまねく集めるような政治家を挙げるのは難しいのかもしれない.ポンド紙幣には国王の肖像が採用されているようだが,天皇の肖像をお札に載せるのは不敬なのだろうか?なぜ神武天皇じゃなくて聖徳太子や武内宿禰だったのか?源頼朝や徳川家康でもない.戦後に憲政の三巨人が採用されたのは米ドル紙幣に建国の父の肖像が採用されていたことに倣ったのだろうか?ともかく,現行の紙幣にも新紙幣にも,政治家はひとりも採用されていない.政治とお金の関係はここでも難しいようだ.この傾向が今後も続くとすれば,学者・文化人が想定される.その代表格が慶應義塾の創始者の福沢諭吉だとすれば,早稲田の創始者の大隈重信も既出なので,早慶に並ぶ日本三大私学と言われる同志社の創始者新島襄は可能性があるだろうか?医学者の流れを思うと,ノーベル賞受賞者の山中伸弥もありうるかもしれない.文筆家では司馬遼太郎辺りだろうか?,村上春樹はノーベル賞を取れたら可能性がある?,でも東野圭吾のお札は想像できないかも??次の新紙幣は20年後の発行が予想されるが,その頃に日銀券がどれだけ日常に使われているかという問題もありそうだ.

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