昨日今日は大学入学共通テストのようだ.今は私立大学も利用しているが,元々は国公立大学入試の共通1次試験として始まったものである.国立大学は全国に86あるそうだ.戦前は7帝大と11の官立単科大学だけだったのが,1949年の学制改革で旧制の高等教育学校が全て大学に移行して全都道府県に設置され68となる.その後も新設され,合併で無くなった大学を併せると100に及ぶ.しかし,それらの中で,横浜国立大学だけが名称に「国立」の文字が入る.
不思議に思って以前にもその訳を調べたことがある.関係者の中では知られた話のようだが,その経緯をよく承知しておられる横浜国大名誉教授の佐藤菊正氏の記事がある(「横浜国立大学」命名の経緯,横浜工業会だより21号,2008 横浜工業会だより 第21号 - 公益財団法人 横浜工業会).要約すると以下の通りである.
新制大学への移行に際して,文部省は1948年に,旧帝大所在地以外の県では1県1校の総合大学を設立し,国立大学はその所在地である県名を冠する方針とした.これに対して,旧制の横浜経済専門学校と横浜工業専門学校は旧制時代から使用してきた「横浜」の名を継続すべく,神奈川師範学校と神奈川青年師範学校の承認を得て「横浜大学」設立の申請書を提出した.一方で,旧制の横浜市立経済専門学校(Y専)と横浜市立医学専門学校も「横浜大学」設立の申請書を提出したのに加え,旧制の私立横浜専門学校も「横浜大学」設立の申請書を提出したので,「横浜大学」の名称争奪戦となる.横浜市は市立大学を横浜に設立する以上は横浜大学以外の名称にはできず,国立大学の名称は他のものにすべきと主張する.これに対して,国立大学側も通りが良い横浜に固執し,国立横浜大学と市立横浜大学の並立で支障はないと主張する.3者会談の結果,先ず私立横専が「神奈川大学」の名称を採用することになったが,国立大側と市立大側は互いに譲らず.その後に市立大は「横浜市立大学」として申請することになったものの,国立大側では「横浜国立大学」案に一部から意義が出る.旧制東京女子高等師範学校の大学昇格に際して,既に設立されていた私立の「東京女子大学」と区別するため「東京国立女子大学」として申請したのを,名称に殊更「国立」を挿入するのは適切でないとして文部省が否定したことから「お茶の水女子大学」の名称になったそうだ.これに準じて考えると名称に「国立」を挿入するのは承認し難いとのことである.最終的には横浜国大の初代学長になった横浜工専の富山保校長の尽力で「横浜国立大学」に調整されたとのことである.横浜大学という名称への横浜国大関係者の強い執念を感じる.
言われてみれば「お茶の水女子大学」こそ「東京女子大学」であって良さそうだが,私立の東京女子大学は旧制専門学校の頃からその名を名乗っていたようだ.これは仕方がない.一方の「横浜大学」は,同時の設立申請なので争奪戦になってしまったのだが,その後に横浜市大が横浜国大に合併する可能性が検討されていたことが,横浜市大百年史編集部会事務局発行の資料に掲載されている(横浜市立大学存亡問題,百年史制作よもやま話 みらいにつなぐ市大の歴史 vol.2,2023 横浜市立大学周年史デジタルアーカイブ).
それによると,横浜市の財政緊迫で市立大学の予算確保が難しくなり,1957年に横浜市議会に特別委員会が設置されて,横浜国大への統合が適当との最終報告書を作成したとある.当時の文部省は公立大学の国立移管は行わない方針だったのと,横浜市大の学生たちが抗議活動を展開したことで頓挫したという.医学部を設置したい横浜国大は,統合を歓迎して敷地の準備や統合後の校舎建設案まで用意していたとの記載もある.横浜市はその後も国立大移管の運動を続ける意向を表明したようだが,実現には至らなかったようだ.
実際には,新制大学の発足時に旧制の公立専門学校が国立大学に統合された例が9あり,その後の1972年までに公立大学が国立大学に移管された例が13ある.一方で,1953年までに設立されて国立移管されなかった公立大学も24ある.それらがどのような経緯で移管され,またされなかったかをかなり詳細に記した記事がある(高橋寛人:高度成長期における公立大学の国立移管に関する研究,横浜市立大学論叢人文科学系 2008;Vol.59 横浜市立大学学術機関リポジトリ).それによると,横浜市大の国立移管が検討された1957年当時は,どの県も財政が厳しかったようだ.横浜市大では商学部と文理学部の関係者が国立移管に反対だったのに対して,医学部は反対が少なく,運営に費用がかかる医学部の国立移管はむしろ好ましいと受止められたという.医学部の単独移管という案もあった一方で,国は多額の費用を要する医学部の国立移管には積極的でなかったようだ.そして,1960年以降の高度成長期には市の財政は好転し,医学部も含めて市立大学で充実を図ることになったという.
国立移管が実現した例として兵庫県がある.1956年に再建団体になっていた兵庫県は4つの単科大学と2つの短大を設置していた.それらの縮小を自治庁が要望したこともあり,県知事が主導して国立の神戸大学と学部が競合しない医科大学と農科大学の国立移管を積極的に進め,神戸大学の校地に隣接する用地の提供や文部省の基準に合った体制(学科編成,施設設備,教員組織)充実のための予算充当を図ったそうだ.また,大物政治家だった大野伴睦と当時の文部政務次官や岸信介の地元だった岐阜と山口の両県立医大の国立移管と同時に検討が進んだことで,移管後の予算が特別扱いで盛り込まれた事情もあったようだ.神戸大学を総合国立大学として充実させる機運もあり,兵庫県立の神戸医科大学と兵庫農科大学の神戸大学への移管は,それぞれ,1964年と1966年に実現する.
総じて,国立大学への移管には費用負担が必要となり,特に多額の費用がかかる医科大学の場合,財政力が弱い県の医大が県立のまま存続したようだ.時々の財政事情によって,文部省側も自治体側も,設置している大学の充実を図るか縮小するか,検討を繰り返して来たのである.その思惑が一致するには,政治的な働き掛けが必要になったりする.それに加えて,国立大学と学部が競合する公立大学の場合,統合すると失職するのではないかと公立大学側の教職員が懸念することなどで,実現が難しくなるという現実もある.この辺りは,企業の合併とはだいぶん事情が異なる.
それはともかく,もし横浜国大と横浜市大の統合していたら,名称の「横浜大学」は実現していた可能性もある.かなり有力な国立大学になったのではないかとも想像する.1957年当時,横浜国大には学芸学部(1961年に教育学部へ改称),経済学部,工学部が,横浜市大には商学部,医学部,文理学部が,それぞれ設置されていた.横浜国大にはその後,経営学部や経済学部に経済法学科などが設置されたこと,また現在の両大学の学部構成を考えると,例えば,教育,国際文化,文,法,経済,経営,理,工,医などの学部からなる規模の大きな総合大学に発展した可能性もあるだろう.おそらく人気も評判も入試難易度も筑波大以上に...などというのは,全く勝手な想像に過ぎないが,やはり横浜大学というのは,神戸大学以上にシャレた大学名かもしれぬと思ったりする.いや,大阪市大と大阪府大の統合例を見ると,今後に未だ可能性が残っているかもしれない.だからと言って自分には影響はないのだが,紹介した資料を眺めるうちに,つい余計な妄想に至ったのである.

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