どうやら縄文時代の後に弥生時代がやって来たということではないようだ.1万年にわたって日本列島に醸成された縄文文明は,渡来系の弥生式と互いに影響を及ぼしながら共存し,やがて弥生を飲み込んでしまったと考える方が良いようだ.もちろん縄文文明も変質はしたのだろうが,文明の骨子基盤はそのままヤマト政権の屋台骨になったのではないかと著者は推察している.
縄文人は海運に長けた世界屈指の海洋民族であり,大陸や朝鮮半島の事情をよく知っていただろうと,著者は別の書籍で述べている.稲作を始めると富が蓄えられ,人口は増えるが権力者が搾取して貧富の差ができ,不作になると食料を奪い合って戦争をする.そんな狂気の沙汰の大陸文明を拒み,自然と共生しながら平等で平和に暮らす縄文文明を持続したかったという訳だ.縄文時代も時代が下がると,気候が寒冷化した影響もあるかもしれないが,西日本を中心に稲作が拡がって弥生化が進むうちに戦争が頻発するようになる.そんな動きを止めるために東日本の縄文色の濃い勢力を中心にヤマトが建国されたというのが著者の推理である.ヤマト政権の本拠地である纏向が奈良盆地の東麓なのは,東日本と繋がる要衝だったからだという.そして,キーとなったのは但馬・丹波の「タニハ」勢力だという.弥生先進地域の北九州勢力は,重要物資だった朝鮮半島の鉄の交易ルートを握っていた出雲・吉備と組んで鉄を独占していた.これをタニハが独自ルートで近畿や東海へ流し始めたことで,出雲と吉備は北九州との盟約を反故にしてヤマトへやって来た.神武天皇が南九州からやってきたのは,そこが縄文色濃厚で正に縄文海人が活躍した場所だからだという.そして,北九州勢力は団結したヤマト政権に攻められ敗れる.こうして倭国大乱と言われる戦乱が続いた日本列島に縄文的平和が訪れる.歴史作家である著者の推理で仮説に過ぎないが,こう考えればヤマト建国の謎が解ける気もする.
著者は,タニハ勢力を代表するのが蘇我氏だとしている.糸魚川を遡った安曇地方で採れるヒスイは縄文時代から尊ばれていたが,蘇我氏はこれを全国に流通させる交易ルートを築いていた.しかし,乙巳の変で蘇我氏に代った藤原氏は独裁体制を築き,富を独占する.人々は蘇我氏の飛鳥時代を懐かしみ,藤原独裁体制に反発して武士勢力が台頭していく.そして,270年にわたって続く縄文的平和を江戸幕府が再興する.その過程で織田信長が殺されたのは,独裁支配を嫌う縄文的世界観の必然と捉える.植民地支配を目論んだキリスト教も阻止した.幕末から明治期にやって来た西洋文明は,一神教のキリスト教の世界観から生じた科学技術の優位性に基づく覇権と支配を目指していた.一神教もまた,戦乱を招く火種である.これに対抗し,大東亜共栄圏という五族共和を掲げる戦争に敗れ,その後はパクス・アメリカーナの体制が浸透している.日本史の底流には,この国の文明の屋台骨である縄文文明と,富の独占・支配と戦乱をもたらす外来文明とが,交互に入り乱れる葛藤が脈々と続いている.
端的にいうと,凡そそんなことが書かれている.気候変動への対応も,縄文文明への回帰と捉えれば,持続性のある暮らしぶりを導けるのかもしれないが,そこでもまた,富の蓄積と支配の誘惑に向き合う姿勢が問われるのだろう.パクス・アメリカーナが揺らぐいま,日本がどうあるべきなのか?日本人は難しくも存亡に関わる問題に直面している.

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