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文庫本:税の日本史

京大の諸富先生による税制視点の日本史概観である.期待に違わず大変興味深い.諸富先生の教科書は格調高すぎて積読状態のところ,この文庫本は改めて日本史の理解を深めるのにとても有意義であった.ここに概要を記録しておく.


税は共同体で稲作をおこなった弥生時代まで遡ることができるようだ.「タチカラ」「ミツキ」「エダチ」と呼ばれる3種の貢納があったらしい.タチカラは田の力で稲など田で採れる穀物,ミツキは繊維製品やニエという山野河海の産物,エダチは古墳や宮殿などを造る労働である.やがて律令税制が整備され,これらはそれぞれ,「租」「調」「庸」となる.

律令税制は大化の改新を期に整備された訳だが,これは白村江の敗戦を受けての防衛力整備や全国的な大規模造営事業による国家荘厳費を賄う必要性によるものだという.ここで,我が国初の貨幣である和同開珎を発行し,通貨発行益も得ているようだ.

一方で,班田収授制では経済発展の動機が生れず,墾田永年私財法によって荘園公領制へ移行する.私有財産化した農地を守るため,領主は農地を有力者に寄進して自らは現地を仕切る受領となる.やがて,租・調・庸は租と同様に土地に課される税に転化するとともに,現地を警護する武士が発生してくる.東国武士をまとめた鎌倉幕府が登場すると,受領に代って地頭を送り込むが,税制としては荘園公領制を引き継いだ訳だ.

ここで蒙古襲来となり,国土防衛のために多大な戦費が費やされたのだが,得るものは何も無かった.ここで新興の商工業や流通・金融業に課税して御家人に恩賞を与えることができれば,幕府は延命できたかもしれない.しかし,そういう流れは断ち切られ,鎌倉幕府は滅亡する.代った室町幕府の支配地は小さかったものの,段銭・棟別銭(建造物造営財源),地口銭(不動産課税),守護出銭(守護の自発的寄付),土倉役・酒屋役(金融業・酒造業課税),津料・関銭(通行税),分一銭(不動産譲渡課税)など,あらゆる税を開発するとともに,日明貿易を独占することで財源を確保する.

太閤検地は中世の税制を根本的に変え,土地の所有者=耕作人=年貢の負担者という「一地一作人」体制を整え,石高(生産量)を定めて課税した.蔵入地(直轄地)からの年貢に加えて,銀山・金山で得た金銀の運上金,直轄都市での営業税,朱印船貿易の収入が財源となる.この構造はそのまま江戸幕府にも引継がれた.しかし,幕府の財政は次第に悪化し,一時は田沼意次らによる商業中心への財源移行も農業基盤優先の方針で退けられ,貨幣改鋳による場当たり的財源に頼る試みが繰り返されるうちに大政奉還に致る.

明治になると先ず,封建制を脱して近代国家とすべく地租改正が行われる.近代国家では,国民の代表たる議会が課税を承認し,使途を定めることになる.また,市場経済への転換を図り,物納を廃止して貨幣で納税する金納化を実施する.しかし,実態は従前の租税収入を基に逆算的に地租税率を定めたので,重い農民の税負担は維持されたという.その後,酒造税が次第に強化され,日清戦争後に急速に増加した軍事費を賄うため,関税とともに煙草税や砂糖税などの間接税が更に強化され続ける.このほか,明治20年に所得税が導入されるが,あくまで補完的であった.

所得税・配当課税・法人税は,いずれも原資が企業活動に依存するので,総合的に観る必要があるようだ.しかし,戦前は一部の資本家の影響が大きく,配当課税や法人税は無税又は低い税率が継続することになる.結果的に,特に農民に負担が重く貧富の格差が大きい社会になってしまったという.特に第一次大戦後の巨額な戦費を調達するため,1940年に抜本的な税制改正がおこなわれ,所得税が一部の富裕層が納める富裕税から,広く一般国民が納税する国民税へ移行する.そして,戦後のGHQ施政下において,所得税,法人税,贈与・相続税など,現在まで続く主要な税目が種となり,その後消費税が加わることになる.

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