「象は鼻が長い」大学2年の頃,教養科目の英語の授業で英作文の問題集をやる時間があった.記憶によれば,稲積さんという先生で,たしか東大の英文科を出たけれど仕事が無くて語学の教師をやっているなどと言っておられた.それはともかく,「象は鼻が長い」を英文にせよという問題で,かなり長時間を費やした記憶が今でも残っている.先生の名前まで覚えているので,よほど強く印象に残ったのだと思う.授業では,指名された学生が黒板に解答を板書する.それに対して,先生がコメントしていく訳だが…冠詞や単福数の間違いに始まって,それを踏まえた別の学生による解答が出て,また,それに対する先生の指摘が続き,よく覚えてはいないけど,30分ぐらいやた気がする.正解として”Elephant has a long trunk"に至ったというのがおぼろげな記憶だが,その後に英語話者との会話で試したこともない.
近年は,日本語に主語は不要という話を時おり耳にするようになる.10年ぐらい前だろうか?日本語には,述語で終わるという以外に大した文法の決めごとが無いということを,何かの新書本で読んだ.英語などと違って,語順はかなり入替え可能だが,特に科学技術的な文章は,なるべく多義的な解釈を排除する順に並べる方が良いという訳だ.それで,「〇〇は~」というのは主語を表すのではなく話題の提起だというのである.確かに主語のない和文例は枚挙にいとまがない.しかし,自分が学生の頃は,むしろ,日本語のそういう特徴は,日本語の非論理性の象徴だという見解が,当時の母校の教員達も盛んに述べていた.論文を執筆する際に,日本語で書いたものを英訳するよりも,初めから英文で書く方が論理的な英文が書けるというのである.まぁ,そういう側面が無いとは言えないかもしれない.留学など科学先進国での経験豊富な学者にとっては,むしろ自然な発想なのかもしれない.しかし,大方の日本人は母語たる日本語で考え,その思考を持って知的活動を拡大していく訳だ.小生の拙い経験からすれば,最初から英文で書いた文章は,所詮自身の英語力の限界を超えることはできない.そのギャップについて,当時からおぼろげな疑問を持ってはいた.一方で,明治期に西洋の学術用語を懸命に和語に翻訳した先人の苦労話も伝え聞いていた訳だ.今日,大学の授業を母語で受けられるのは,そういう先人達のお陰だというのである.更に言えば,日本語で考えてこそ,日本人らしい発想ができるのではなかろうか?という気もする訳だ.
当時は,各国の土地に根差した(地縁血縁由来の)思想や文化よりも,世界共通のユニバーサルな理念や文化に根差す社会(ゲゼルシャフト)を強化することが,より尊く未来志向だという考え方が強かったように思う.その最たるものが,共産主義思想だったり,ソビエト体制だったりする.言語の世界では,どの国にも文化にも依存せず人為的に創作されたエスペラント語が理想的な世界共通言語だという考え方もあった.そんな風潮に流され,中高時代にブービー語なる勝手な言語の文字を創作し,初歩的な文法書と辞書を書いたこともある.もちろん軽いおふざけの範疇である.こういった文化思潮には,長い時間軸に沿った山谷があるのかもしれない.しかしながら,人が生まれ育った社会文化や自然環境の背景から全く独立した思考や思想が存在し,世代を超えて発展していく姿を想像することは,当時に増して,近ごろは年々できなくなっているように感じる.共産主義思想は少なくとも西側諸国では退潮し,エスペラント語の話題も殆ど聞かなくなった.あるいは,その一端は,自身の思考の中で経験が占める割合が単調に増加する故なのかもしれぬ.それでも,あの頃に比べて,自国の文化・風土や歴史を誇りに思い,敗戦後の極端な自国否定な思想から脱却しようという風潮は,どちらかといえば自然に感じるところが大きい.歴史や伝統は,否定するものではなく,学んで引き継ぐものである.大学時代から,知識を科学的に積み上げる術を学んできた経験からすれば,それは当然の成行きだと考える.
「象は鼻が長い」このあたりまえの和文を非論理的だと言って否定するだろうか?そんな疑問を長らく抱いてきた経験から,この動画を眺めると,日本語という母語でしっかり考察することの重要性と有難さを実感するところである.ちなみに,冒頭に示した記憶による英訳の正解が,動画の正解例と違っているのは,自分の記憶違いだろうか?AIによる自動翻訳に頼る機会が激増するいま,あらためて,是非に英語に堪能な読者の解説を期待したい.

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