東大で史学を学び国際日本文化センターで日本中世史を研究する呉座勇一氏が,最新の研究を踏まえて豊臣秀吉の実像に迫る一冊である.現在流布する秀吉像は,後世の江戸期になって書かれた「甫庵太閤記」などの物語風伝記に基づくところが多く,それらには,著者独自の解釈や改変もあるようだ.もちろん,信頼できる史料に書かれていないことは分らないのだが,どこまでが史実と言えるのだろうか?
先ずは百姓の出という件について,当時は百姓=農民という図式は通用しないようだ.同時代の文献からは,農業民というよりは,むしろ行商人や漂白民的な記述が見られるという.秀長とは父違いの同腹と言われているが,文献からは父の名も確証に至らないらしい.ともかく,素性がはっきりしない社会的に低い身分だったのは違いないようだ.
織田家の小人頭を勤めていた幼馴染の紹介で,小人(小者=雑用係)として織田家で奉公を始めたと考えることに不自然さはみられないという.草履取もするが,信長の草履を懐で温めたという逸話は創作と観ている.墨俣一夜城の逸話も後世の創作のようだ.一方,信長が足利義昭を要して上洛する頃から,秀吉の名は史料に残るようになり,金崎の退き口で殿として朝倉軍の追撃を食い止める.小谷城攻撃の実行役として活躍後は浅井氏の旧領を与えられ,長浜城を築いて城主となる.その後の織田家における出世は間違いないところだが,出生不詳の身ながらに織田家の有力武将にまで成上ったのは,信長時代の織田家の急成長によって,慢性的な人材不足が続き,実力主義だったことによるようだ.この間,秀長は秀吉の別動隊を率いる役割を任されたと書かれている.
本能寺の変のあと,中国大返しでは備中高松から姫路までを一昼夜で移動したと言われている.しかし,これは秀吉の忠義を誇張した発言であり,実際には3日をかけているようだ.毛利との決戦に信長の援軍を得るため,進軍ルートの兵站を整えていたので,それを利用して山崎まで短時間で移動したという.明智を討った後の清須会議において,秀吉は信長の後継者になったというのも違っており,織田家の正統な家督継承者である三法師を擁立し,柴田,丹羽,池田と自信を含む四宿老による合議体制を採ったというのが正しいようだ.その後に賤ヶ岳の戦いに至ったのは,織田家の家督争いが再燃したということらしい.
全国統一後に朝鮮出兵することになったのは,国内に争う領地もなく,戦国の世に生じた大量の軍隊が働く場を失っていた当時の社会事情にあるようだ.そこで,朝鮮半島や,果ては中国を平定しようとしたのだが,秀吉は異民族に対しても国内統一と同じ方法が通用すると考えていたふしがあるという.しかし,戦況は思うにまかせず,半島南部のみ切り取るとの和睦交渉もまとまらないうちに秀吉は他界する.
その後は関ケ原の合戦を経て征夷大将軍になった家康が天下を握ったということだが,これもそれほど単純ではないらしい.秀吉の跡を継いだ秀頼と淀殿は,依然大阪城にあって,徳川の臣下とならず治外法権的な存在を維持していた.実際には,大阪冬の陣を経て,秀頼を大和に転付するなど,家康も豊臣家を潰さずに済む提案をしているそうである.しかし,こういった提案を受入れなかった,あるいは受け入れる状況を作ることができなかった秀頼・淀殿の判断ミスが,豊臣家の滅亡を決定的にしたという.
最終的には,頼れる肉親や譜代の家臣の不在が弱点になったという訳だ.甥の秀次を関白にしたあと,実子の秀頼が生れ,秀次が謀反を企てたので切腹させたという話もある.しかし,実際にでは,秀次に謀反をたくらむ動機も兆候の記録もなく,秀吉が切腹を命じたという証拠もないようだ.そんな単純な話でもないらしい.歴史を科学的に紐解くのは,なかなか難しいということは理解できる.

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