いざなぎ・いざなみを祀る伊弉諾神宮があって国生み神話に語られる淡路島育ちとしては,この2体の神のことは気になるところである.ヤマト建国の核心にも直結する謎解きに,歴史作家の関裕二氏が臨んだ近著を紐解いてみる.
氏の著書をこれまで10冊以上拝読してきた.史実を追う歴史学よりゆるい古代史の推理小説に近いのかもしれなが,歴史学や考古学の見解を踏まえての推理である.10年前の著書に比べると,ヤマト建国の姿がかなり明確に語られている.仮説程度の信憑性はあるのではないかと思い読み進む.
農・漁業に必要な古代の重要物資である鉄は,朝鮮半島南部が主な供給源だったので,任那の地に進出して生産や交易に携わる倭人(古代日本人)もいたとは他の情報源から聞くところである.当時の長距離輸送は海運が主であり,代表的なルートとしては日本海ルートと瀬戸内海ルートがある.中華帝国に抗って日本各地の勢力が大和の纏向に集まった頃,いち早く加わったのは東海勢力だったようだ.この東海勢力Aは,纏向から瀬戸内海航路を牛耳る吉備勢力と繋がり,瀬戸内海ルートを確保する.一方で,濃尾平野北西部の東海勢力Bは,隣接する近江を経てタニハ(丹波・丹後・但馬)勢力と組み,日本海ルートを確保する.どうやら,ヤマト建国では,この2大勢力の主導権争いがあったようだ.日本海ルートの主軸となったタニハ勢力を代表するのが塩土老翁=武内宿禰で後に蘇我氏となる.神話ではスサノオだったり住吉大神だったりするようだ.瀬戸内海ルートの軸となった吉備勢力を代表するのがニギハヤヒで後に物部氏となる.
当初,北九州勢力と出雲勢力は連合して鉄を淡路島に送り込み,大和を封じ込めていたようだ.それに対して,タニハ勢力が陸路で播磨を南下して明石海峡を封鎖すると,出雲と吉備勢力も纏向に合流し,ヤマト建国に大きく動いたという.日本海グループは北九州の奴国と組み,筑後にあったと著者が観る邪馬台国を滅ぼし,邪馬台国の後継者と称して中華帝国や朝鮮半島との交易ルートを押える.北九州の地形は東からの攻撃の防御には弱いようだ.出雲から奴国に遠征していた東海B=タニハ勢力を代表するのが神功皇后(=トヨ)である.しかし,大和に残っていた瀬戸内海グループに裏切られ,奴国から敗走して西海を廻って日向へ流れつく.このとき奴国や出雲は急速に衰退したという.ヤマトの実権を掌握した吉備勢力は,その後の混乱が続く中で神功皇后の祟りを恐れ,日向へ逃れていた子の神武を祭神として大和に迎え入れる.これが司祭王としての神武天皇の即位だと著者はいう.神武が紀伊半島をぐるっと回って熊野から大和入りしたのは,熊野が東海勢力の拠点だったからという訳だ.この際,神武の迎え入れに抵抗したナガスネヒコは東海勢力Aだというが,吉備勢力のニギハヤヒに裏切られて殺される.
そうすると,2つの東海勢力はともに吉備勢力に裏切られた訳だ.その2つの東海勢力=敗者の祟りを鎮めるために,神功皇后とその夫(仲哀天皇と塩土老翁の2人いる)は伊勢神宮や伊弉諾神宮に祀られているという訳だ.伊勢神宮と伊弉諾神宮はいずれも,大和における東海勢力の拠点となった葛城山と同緯度にあるそうだ.それがいざなぎ・いざなみの正体だという.日本書記を編纂した藤原氏は,タニハ勢力の蘇我氏を滅ぼした悪事を隠すため,同一人物の事績を何人にも分解して別の時代に分散させたりしたことで,事実が分らなくなっているというのである.そのネタバレをほのめかしているのが古事記だともいう.ザックリ要約すると,そんな推理が書かれていた.事実か否かは分らないが,これが本当ならスッキリ腹落ちしそうな話に思える.淡路島に伊弉諾神宮があるのは,瀬戸内海ルートの重要拠点として,ヤマト建国時の主導権争いの端緒に,争奪戦の対象になったからということになる.



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